はじめはそれほどでもなかったのだが、その内次第にこんな考え方はどこか変ではないだろうかと感じられ始めてきたのは、農業政策に関する農民の次のような主張であった。

 第二次世界大戦後の日本の食糧難を支えてきたのは農民である。日本人を餓死から救ったのは誰あろう農家である。だから今度は日本人が農家を支えてくれるのが当然だ。

 こんな主張は選挙の度に農家に対する補助金や買取りや農地の取り扱いに関する様々な規制や緩和措置などに対する要求に付加されていた。農民を守れ、農業を守れ・・・、そしてこうした要求に「なぜなら我々は戦後日本の食糧危機を守り日本人を救ってきたのだから・・・」という理屈が付いていた。なんとなく分る主張であり、特に抵抗なく理解できる考えでもあった。

 戦後日本中が飢えにまみれていたことを否定しようとは思わない。国民それぞれがささやかにしろ空き地を見つけて自力で芋や野菜を植え育て収穫したことがあったとしても、農家なしに日本が生き抜けなかっただろうことは事実である。また米軍からの援助物資が学校給食の普及などで食糧難を少しは緩和したことがあったかも知れないけれど、多くの日本人が農家回りや買出しなどで毎日の糧を得ていたことを否定するつもりもない。農家が日本の食糧難を支えていたことは事実として認めてもいいだろう。

 だから「農家なしに日本人の食糧難は解決しなかった」ことを事実として否定しようとは思わない。だがそれが「農家が恩恵的に食料を作り、それを日本人に供与してきた」とは私には思えないのである。農家は自らの意思に反して強制的に農作業を義務付けられ、他に選択すべき多くの職業を犠牲にして米を作らされ、野菜を育てることを強いられていたとは思えないのである。

 農家の全部がそうだというわけではないだろうが、農家は「農地がある」という事実上の特権に乗っかることができたと思うのである。もちろん政府に配給のためなどと称して不本意な価格で買い上げられていたかも知れない。それは場合によっては時代劇映画のお代官様の年貢のように感じられる場面だってあったかも知れない。

 「相応の対価」をどう捉えるかはとても難しいとは思う。けれども政府は農業を止めたいと思っている農家に農業を強制したのではない。無償による米や野菜の供出をもとめたのでもあるまい。かてて加えて農家は着物や品物を持って訪ねてきた買出しの人々に僅かにしろ米や野菜を交換するだけの余力があったのである。そのバランスをどこで取ったらいいのかは分からないけれど、農家は農産物に対する対価を得ていたはずである。

 こんなことを思い出したのは、最近の新聞に似たような記事を発見したからである。それは北海道の根室に近い落石町に作られているフットパス(英国が発祥とされる散策路らしい)の当初計画のころの思い出の記事である。フットパスを計画した一人がこんなふうに語る。

 「フットパスができる前、北海道の高速道路建設が『無駄な公共事業』としてやり玉にあげられていた。『私たち田舎の人間は都会の税金をもらって生きている。でも、食を供給し、都会の胃袋を満たしているのも私たち。都会の人にそんな現状を知ってもらい、語り合うきっかけにしたかった』」(2014.4.27、朝日新聞)

 多くの地方自治体が国の補助金や交付金で運営されていることが分らないではない。恐らく彼は「そんな仕組みに地方が萎縮することなく胸を張って生きていこう」みたいなことを言いたかったのだと思う。その意思を私は否定しようとは思わない。でもそれは税金が所得格差の是正や富の再配分の目的や性質を持っているからである。税の仕組みは払った税金が自分に直接戻ってくることのみを期待するものではないからである。

 でも彼の言い分はそれを超えてしまっているのではないだろうか。彼は「富の再配分」は富める者の施しや恩恵であり、それを受け取ることは貧者の物乞いであると思ってしまっているのではないだろうか。だからそんな思いを否定するために、出す者と受ける者の対等性をことさら強調したかったのだろうか。「私は施しを受けているのではない。ちゃんとお前たちの胃袋を満たしてやっているのだ」・・・と。胃袋を満たすための食料を作っていることが、自分たちが納めた税金よりも多くの補助金や交付金を受け取っていることとのバランスがとれているのだと、彼は本当に思っているのだろうか。

 そんなことが通るのなら、自動車メーカーの多い自治体の住民は、都会人の足は私たちが作っているというだろうし、テレビなどの電気製品も、映像や芸術などに携わる人たちも同様にいうことだろう。犯罪が社会にまるで寄与していないのかどうか、実は私は疑問に思っているのだが、仮にそれを認めるとして、社会はそれぞれが互いに支えあうことで維持できているのではないだろうか。私の生活は、食べることだけで成り立っているわけではない。こうしたパソコンに向かってエッセイを書いていることだって、マシンメーカーがいるからでありソフトやネットワークだって食べることと同じくらい重要な生活の一部になっている。そこから「食物の生産」だけを取り出して、そこに寄与していることにことさらな意味を与えることはどこか不自然である。

 かくして各人それぞれのいわゆる「自分の仕事」は互いにつながっていることになるから、そのことをもって対価の主張をしてしまうと、結局互いの貢献は相殺されてそこに特別な対価性を持たせることは難しくなってしまうだろう。彼の主張する「都会人の胃袋を満たしている」ことに特別の対価を認めるとするならば、すべての人間それぞれに特別な対価を認めなければならないことになってしまうからであれ、それが妥当だからである。

 しかも都会人は(彼の言い分によるなら)田舎の人間よりも多額の税金を支払い、かつ、米や野菜の料金も支払うことになるのだから二重の負担になってしまうのではないか。ここで対等性を強調するなら、都会人に農家は無償で米や野菜を供給しなければならないことになる。

 こんな理屈は、例えば福島県人が「東京の電気はおらが村の原子力発電所で作っている」ことをことさら強調するような場面でも見られる。都会人は電気代を支払い、発電所界隈の住民はどこまでバランスがとれているかはともかくとして、電気料金の中から公民館や市町村財政への補助や介護保険の減額などのメリットを受けているのである。だからことさらに原発の危険負担を強調することは不自然である。「ギブアンドテイク」はそんな主張よりも以前に既に成立している、・・・と私は思っているのである。


                                     2014.5.2    佐々木利夫


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ギブアンドテイク