落語にこんな話しがある。隠居が自宅に近所の衆を集めて下手な義太夫の語りの会を始める、近所の衆はその席で振舞われる酒肴が目当てなだけで誰一人義太夫を聞きたいと思う者などいない、そんな話である。こんな話が今でも語られ、下手の横好きという諺が今でも残っているのは、他人の趣味というのは本人以外にはなかなか理解しにくいことを示唆しているのだろう。

 人生がすべからく「暇つぶし」なのかどうかは、なんとなく納得できるような気がしつつも、ストンと心に落ち着くまでにはなっていない。暇つぶしというといかにも投げやりなように思えるし、逆にそんなことはない自分の人生は真剣そのものだったと意気込みたい気持ちだってないわけではない。しかし長い人生振り返って見ると、どこまで真剣だったかどうかを我が身に納得させられるかどうか疑問が残る。

 タイトルに掲げた「下手の下手知らず」は、もしかしたらそうした真剣さを自らに課した誤解の結果によるものなのかも知れないと、ふと思ったからである。

 ご隠居の披露する義太夫は、少なくとも本人は「他人に聞かせるに足るものだ」と思っているのだろう。だがそうした評価を誰がするのかは、事実としてはとても分りにくい。

 NHKの番組に「プロフェッショナル」だとか、「凄わざ」と銘打った番組がある。誰もが一流と認める技術を持っている人物の紹介をしたり、また誰もが実現したことのないような技(例えば紙飛行機の滞空時間であるとか完璧に近い丸い鉄の玉=真球を狭い平面上を走らせるなど)に挑戦する二組のグループの競い合いなどを紹介する番組である。これも一つの評価である。テレビで取り上げるのだから「社会に承認されるような上手」を紹介する番組である。

 そこには決して黙々としてトイレ掃除をやっている時給千円のフリーターが登場することはない。毎日電卓やそろばん片手に帳面付けをやっている定年間際の老人などの姿が表れることもない。そこではある結果、つまり賞賛されるべき結果が予め決められており、それに適合する人物だけが登場資格を認められるのである。そのことを批判したいとは思わない。オリンピックで金メダルをとったり、高校野球で全国制覇することを、自分にできないからというだけで拒否反応を起こしたいわけではない。

 でも「社会に認められる」ことを基準にしてしまうと、人はおよそ全員が失格者になってしまうのではないだろうか。芸能でも芸術でも、はたまたスポーツや文芸や評論など社会のあらゆる分野でも、人はほとんどの場合「社会に認められる」ことを賞賛の基準にしてしまったなら失格者にならざるを得ない。

 自惚れが常に真実を示しているとは思わないが、やはり「自分を評価するのは自分」なのではないだろうか。「自分へのご褒美」という言葉がこの頃聞くようになった。どこかに「誰も褒めてくれないんなら、せめて自分で自分を・・・」といういささかマイナーな感触がしないではないけれど、この頃それはそれでいいのではないかと思うようになってきた。そしてそれは少しずつ「それでいいんだ」とか「それが人生なんだ」とか、更には「人の評価とはそういうものなのではないか」と思うようになってきている。

 ノーベル賞をとることはもちろん賞賛に値するだろう。世界平和に貢献することや宇宙を極めようとすることは素晴らしいことだと思う。でも最近本を読んでいて、「社会に多大な影響を与えた○○氏の意見によると・・・」だとか、「世論をリードしている××氏によれば・・・」などという記述にぶつかると、とたんにその本を読む気がしなくなってくることに気づいた。

 特にその○○氏や××氏について私が十分に知らない場合はなお更である。それはもちろん私の無知が最大の原因にあることは間違いない。○○氏がどんなふうに社会に多大な影響を与えたのかは、私が知らないだけであって世の中のほとんどの人がその事実を承認しているのかも知れないからである。でも少なくともそうした事実を私は知らない。その人の名前は聞いたことがある程度の知識しかないことは、私の怠慢なのかも知れない。

 でも私はその人がどんな形で世界や社会にどんな手法で影響を与えたのかを知らないのである。社会に影響を与えたとする論述を展開する著者は、もちろん○○氏のことを十分研究し調査しているのだろう。でも著者の多くは既成の事実として述べるだけでその事実を証明はしない。証明なしで結論に飛躍してしまうのは、もしかしたら著者の単なる思い込みでしかないのではないだろうか。

 それともそうした「偉大な事実」というものは、○○氏という名前を出すだけで所与のものとして証明不要の承認をされてしまうことで許されるのだろうか。

 そんなことを考えていると、果たして「人が社会や世界に影響を与える」ということが本当のことなのだろうかと思えてくる。例えば世界中の著名人と自他共に認めている人がいて、それらの人々多くは「世界の平和」を望み主張し何らかの実行行為をしただろうと思うのである。恐らく人類が社会というシステムを開発して以来2000年か3000年かはともかくとして、「戦争は嫌だ、平和こそが人類の目標だ」と考えた人々は多数いたと思うのである。

 にもかかわらず人間の歴史を通じ、そして日本だとかアメリカだとかアフリカなどの地域を問わず、戦争は一向になくなることはない。私には時間を経るにしたがって対立が深刻化し多数の死者を出し形を変えながら生活の中により一層入り込んできているように思える。つまり、平和への道筋は、遠ざかっている歴史を人間は選んでいるように思えるのである。

 平和を唱える人がいたから現状で済んでいるので、いなかったらもっと悪化しているというかも知れない。その言い分に反論はできないけれど、その言い分が正しいことも証明はできないのではないか。戦争も含めて「人間に潜む悪」は誰にでも存在することを私たちは知っている。それを「善」と呼んでいいかどうかは疑問だが、一人の人間に善と悪とが共存しているのが人類なのではないだろうか。

 「下手の下手知らず」はもしかしたら、人は他者を理解できないことを意味している。たとえそれを独断であるとか偏見と呼ぼうが、はたまた独りよがりだとか自分勝手、もっと過激に独裁・専制と名づけようが、それが人であることを意味しているように思う。それはもしかしたら人は他者を理解できない生物として進化してきたことを意味しているのかも知れない。そしてその考えを推し進めていくと、人は自分のことだって理解できないのかも知れないと思うところまでに行き着いてしまう。

 人は孤独である。協調、共同、協力、同調、一致、団結、共存・・・、人が他者と同じ方向を向こうとする意思を表す言葉はいくつもある。でもそれらは結局ないものねだりであり、不可能を強いるものなのではないだろうか。それだからこそ人は生きていけるのかも知れない。歴史を作っていけるのかも知れない。社会はそんな人たちで作られているのかも知れない。そしてそれはそれでいいのではないかとも思う。幻想かも知れないけれど人は他者を理解できると錯覚することで、かろうじて人として生きていけるのでかも知れない、社会を作り上げていけるのかも知れない、ふとそんなことをこの頃考えるようになってきている。


                                     2014.11.28    佐々木利夫


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