隠居といったところで、現代では核家族化がすっかりと進んでしまい、夫婦に子どもが一人か二人という世帯が基本になってしまった。だから昔なら普通に存在していた三世代とか四世代が一つ屋根の下に暮らすといった世帯構成は、今ではほとんど見られなくなっている。したがって一家の柱としての役割から少し離れつつも、かつての大黒柱としての威厳を多少残しているような、いわゆる「隠居する」といったイメージもまた同じように消えてしまっている。

 そうした現実は単に家族構成員の変化という意味を離れて、個人経営の商店とか農業などと言った、いわゆる生活の資を支えるとも言うべき「のれん」を次世代に引き継ぐというスタイルの消失にもつながっていく。つまり表立って商店や漁業などの代表者というイメージから離れて、「楽隠居」という言葉に代表されるように責任から一歩離れつつも、それなり昔取った杵柄ともいうべき背後の影響力を持った存在という形態自体が消失してしまっていることを意味している。

 だから隠居という言葉は、現代では既に死語と化しているといってもいいかも知れない。しかし、だからといって使われなくなっているわけではない。むしろその内容を多少変化させつつ、少なくとも「一つの老後の形」を示す言葉として定着していっているのではないだろうか。

 「今時の若い者は・・・」というセリフは、私の知る限りギリシャ時代からあると聞いたことがある。だとすればそれは、世代間キャップとしていつの世にも存在している当たり前の事象なのかも知れない。理解されない事象を若い者はそのままに乗り越えて、いつの日か乗り越えてきたと信じているそのものが時代後れと批判される、そんなことを飲み込み繰り返して人は進化してきたのかも知れない。

 ただそれを進化と呼ぶかどうかは別として、我が身を老境の真っ只中に置いてみると、周りはいつの間にか己よりも若くなっていて、その周りに向けてどこかで意地悪をしたくなるような心境に襲われることがある。それほど悪意に満ちた考えとか行動だとは思っていないのだが、どこかで「他者の行動に少し逆らってみる、多少曲がったことを主張してみたくなる」、そんな感情が湧いてくることがあるのである。

 それは老幼のギャップに対する老人特有の嫉妬かも知れないと思ったこともあったのだが、どうもそればかりではないようなのである。むしろ、そうした行動は、「多少ひん曲がってはいるけれど、どこか正義感みたいなものに裏打ちされている」ように感じられる時がある。その行動が単純な嫌がらせとか意地悪というのではなく、僅かにもしろ正当性の片鱗を含んでいるとの言い訳を添えた行動になっているようなのである。つまり、そうした行動を完全な正義だとか人間としてふさわしい行為だと自慢するほどではないけれど、いささかの後ろめたさを残しつつも我が身を擁護する立ち位置を多少残した行動になっているように思えてならないのである。

 漫画サザエさんの作者、長谷川町子の作品に「いじわるばあさん」というのがある。私などは、この作品のほうがサザエさんよりも好きなくらいだ。タイトルに「いじわる」とあるにもかかわらず、どこか主人公の行動に「そうだ、そうだ」と納得できるものが感じられてしまうのはどうしたことだろうか。

 私の意地悪にはこんなものがある。電車で二人分の座席に一人でふんぞりかえっている若者の姿を見て、他に空いている座席があるにも関わらずその若者の隣の隙間に意図的に割り込もうとしたり、荷物を座席に置いて寝たフリをしている乗客に向かって「空いてますか」などと声をかけつつ、無理に荷物を除けさせて座り込む。こうした行為は一種の嫌がらせになっているかも知れないとは思いつつも、どこかでそうした行為によって溜飲を下げようとしているような意識がある。

 足首を痛めていてゆっくりしか歩けないのは事実なのだが、横断歩道で右左折しようとしている車と青信号で渡りはじめた私が競合するとき、急ぎ足になって車に進路を譲ろうとはしないでむしろ意図的にゆっくり歩くことなどもそうである。

 家族や仲間との論争でもそう感じるときがあるである。相手の言うことが分らないではないときでも、相手の主張の根拠が、「世の中そういうもんなのだ」、「社会は理屈では割り切れないんだ」、「みんなそう言っているから」などと証拠やデータなしに主張してくると、思わず根拠を求めて反論してしまうこともそうだと言える。相手の主張が感情だけで根拠が乏しいことに納得し、しかも「世の中ってそういうもんだよな」とか「常識とか世論とかいうものにデータを示すことなんて難しいよな」と思いつつ、データのないことを理由に相手に反論することも、言ってみれば一種の嫌がらせであり意地悪、更には傲慢になっているのかも知れない。

 とは言えそんなことがあるからこそ、私のエッセイのネタが切れることなく今まで千本を超えてここへ書くことができているのかも知れない。こうしたエッセイが自分史になるのか、それとも一種のへそ曲がりの繰り言に過ぎないのかは置くとして、へそ曲がりもまた自分を作り上げている大きな要素になっているように思えてくる。
 そしてへそを曲げていられる現状というのも、もしかしたら「食う寝るところに住むところ」がそれなり安泰している老人の、贅沢な一面なのかも知れないとも思う。こんな過ごし方を昔の人は「楽隠居」と呼び、老境に入った人生の幸せな一つのかたちとして理解していたのだろうか。


                                     2014.12.11    佐々木利夫


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隠居のへそ曲がり