どんなことだって、本人がそのことに「優しさ」や「思いやり」を感じたのだとするなら、「そう感じない人」がそのことにあれこれ言うことなどないだろう。ましてや「そう感じない人」が「感じた人」と接点や利害関係がまるでないのだとするなら、余計なお世話である。もしかしたらそのギャップは私だけの独断や偏見によるものなのかも知れないからである。

 発端は最近の新聞投稿であった。私は私とほぼ同じ年代の男性の感じた人の「すてきさ」とか「優しさ」というものが、こんなに変質してしまっているのかと驚いたのである。「こんなすてきな自転車少年も」と題するこんな投稿であった。

 「歩道を愛犬と散歩していたところ、後ろから『自転車です。自転車が通ります』という子どもの声が聞こえた。立ち止まって振り向くと、小学校高学年男の子が『失礼します』と一礼して通り過ぎた。・・・ほのぼのした気分になった。・・ベルを鳴らされると身構えてしまうが、人の声ならずっと温かみがある。・・・『自転車が通ります』。そこには。運転者の安全運転への心構えと優しさが込められているように思う」(2014.2.20、朝日新聞、77歳男性)

 私はこの投稿の中に二つの錯覚による思い込みがあるような気がしたのである。一つは「自転車が通ります」と言う声かけに対する反応の問題であり、もう一つは声かけの主が小学生だったということについてである。

 まず第一点。この自転車は歩道を通行しているのである。もちろん自転車の通行が許可されている歩道であるとか、運転者が13歳未満や70歳以上であるなど、一定の条件のもとで歩道の自転車通行が認められていることを否定はしない(道路交通法63条の4、同施行令26条)。この現場の状況がそれに適合しているかどうか投書からは分からないので、そのことを根拠に投書者の思いを否定することはできないだろう。でも基本的に自転車は道路交通法上車両であり、車道の通行が義務付けられていることに歩行者も運転する者も投稿からは思いが及んでいないように感じるのが気がかりである。

 自転車安全利用五則(中央交通安全対策会議、交通対策本部決定、平成19.2.10)によると、歩道は歩行者優先であり自転車は車道寄りを徐行することとされている。だとするなら自転車が歩行者を追い抜くようなときは、歩行者の歩行を妨げてはならないはずである。つまり歩道通行が認められているとしても、それは歩道を通行する権利が得られたこことは違うのである。歩行者の障害になるような場合、運転者は自転車を降りて押して歩かなければならないということである。

 さてこうした事情を本件の投稿に当てはめてみると、後ろを走ってきた自転車の小学生が、前を歩く犬を連れた老人が自分の通行の妨げになっていることを知ったことが分る。なぜなら、散歩している老人の邪魔をすることなくゆっくりと追い抜くことができる状況だったなら、わざわざ老人に向かって「自転車が通ります」と声をかける必要などないからである。
 もちろん自転車を買ってもらったばかりなどで、通る人全部に「これが私の自転車です」と自慢したいような気持ちになっているような心理状態も考えられなくはないが、少なくともこの投書の内容からはそんなことは考えにくい。

 そうすると、この小学生はベルを鳴らす代わりに声をかけたのであり、これから追い抜くとの合図であることは追い抜かれた老人が認識しているところでもある。まさにこの自転車の運転者は老人に向けて、「これから追い抜くので私の追い抜きの邪魔をしないでくれ」、もしくは「追い抜くときにぶつかるかも知れないから脇へ寄って歩くように」との合図を送ったということである。

 そうなのだ。この運転者は小林一茶もどきに老人に対して背後から「そこのけ、そこのけ、お馬が通る」との合図を発信したということである。それは「声かけ」であれ「ベル音」であれ意味は同じである。運転者は老人の通行を妨げたのである。もしくは「私の自転車の通行を妨げないよう、脇へ除けろ」と命じたのである。

 運転者の歩道での自転車通行に関する自覚が足りなかったのか、または徐行して歩行者の邪魔にならないような自転車の利用についての保護者なり学校なりの指導が足りなかったのか、それともルールは分っていたけど守るのが面倒くさかったのか、そこのところは分らない。それでも運転者は無意識かも知れないけれど、歩道が歩行者優先であることを忘れていたかまたは結果的に無視したのである。

 さてもう一点である。投稿者は「ベル音よりも人の声には温かみがあり、優しさが込められている」と言う。本当にそうだろうか。もしその声がヤクザっぽい言い方で「てめえ、退きやがれ」だとか、おばちゃんの声で「おじいちゃん、ここは危ないからね。自転車が通るから脇へどけてなさい」などとやんわり皮肉っぽく言われたとしても、それでもベルを鳴らされるよりは優しく暖かい気持ちになれるなどと言っていられるだろうか。

 最近、ウインカーに連動して「右に曲がります、ご注意ください」などの人工音声を、ウインカーが消えるまで繰り返すトラックなどが出てきている。交差点で普通に歩いている歩行者にもその音声は強制的に届き、思わず「うるさい、何様のつもりだ」と言いたくなるような気持ちにさせられる。ウインカーの点滅だけならまだしもこの音声には、聞いている人のいらだちを誘発させるような響きがある。

 散歩している老人が、「自転車が通ります」との追い越しの声に、「優しさ」だとか「暖かさ」を感じたのは、もちろんその言い方にもあっただろうが、基本的にはそれが「小学生だった」からなのではないだろうか。そして追い越した自転車が信号で止まっていて、追いついた老人が少年と少し立ち話ができたからなのではないだろうか。私には単純に「ベル」よりも「人の声」の方に温かみがある、などとはどうしても思えないのである。

 もしそうした感覚が一般的に妥当するのだとしたら、自動車や電車なども含めてすべてのベル、つまり警笛を「人の声」にすることで、交差点などでのトラブルが軽減されることになるだろう。「ベル音」を「人の音声」に変換することくらい、今の技術ではお茶の子さいさいだろうし費用もかからないだろう。それで本当に自転車の運転者と追い抜かれる者との間に、優しさやぬくもりが伝わるのだとするなら、国も自治体も率先してこうした変換に取り組むべきである。私にはそんな効果は恐らく期待できないと思えるのだが・・・。

 追い抜かれた老人が、追い抜いた自転車の小学生を優しいと感じたのだから、無関係な私がそのことに異を唱えることはないかも知れない。でも私には老人のこの事実に対す受け止めかたが、どこか違うのではないだろうかと気になったのである。それとも私自身がこの程度のことには優しさを感じなくなっているくらい、変質してしまっているのだろうか。


                                     2014.2.25    佐々木利夫


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そこのけそこのけ
     お馬が通る