誰が言ったのかもうすっかり忘れてしまっているが、ある著名な女性画家の一言として、私のメモにこんな言葉が残っている。恐らく新聞に投稿されたものからの引用だと思うのだが、発言者の氏名はおろか切り抜きさえも残されていないところを見ると、メモした当時はそれほど気にならなかったのかも知れない。こんな一言である。

 「・・・千人の人がいたら、千の悲しみがあると思うんです。だから私はその悲しみを描こうとした・・・」(2013.3.3)。

 言葉として分らないではなかった。トルストイがアンナカレーニナの冒頭に「幸福な家庭は全て互いに似ているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」と書いたように、千人の人それぞれに異なった悲しみがあるだろうことはむしろ理解できる。でも、彼女の投稿を読んですぐに多少は変だなと感じたことが、このメモになったのだと思う。

 人それぞれの悲しみが異なっているだろうことを否定したいのではない。ただそれを「千人で千の悲しみ」と包括してしまったことに、どうにも理解できないものが残ったのである。人がそれぞれに他者とは異なった悲しみを抱いてことを承認したところで、その悲しみがその人にとって一つしかないなどと、この画家はどうして思ってしまったのだろうか。彼女の言い分からするなら、つまるところ「千人の人には千の悲しみしかない」ことになってしまうからである。

 もしかしたら彼女は、「一人には一個の悲しみしかない」ことを言いたかったのではないかも知れない。数学的に一人一個のリンゴだから千人で千個のりんご、そうしたリンゴ一個を悲しみ一個に当てはめようとしたのではないかも知れない。人は誰しも例外なく悲しみを持っているのだと、ただそれだけを言いたかったのかも知れない。

 それでも私は彼女の言葉に、悲しみを理解しきれていない者の驕りを感じてしまったのである。人の持つ悲しみを、一個二個と数えることなどできないだろうと思う。人はむしろ数え切れないほどの悲しみを抱いて生きているのではないだろうか。果たして人は己の人生の中に、どれほどの悲しみを抱え込むことができるのだろうか。そしてその数多の悲しみに、どこまで耐えていけるのだろうか。

 画家である彼女は、他者の悲しみを画布に表現すると宣言する。私はこの一言の中にも、人はどこまで他者の悲しみを理解できるのだろうかと疑問を感じたのである。私の悲しみが仮に一つしかないと認めてもいい。それでもそのたった一つの私の悲しみを、私でない他者の彼女が果たしてどこまで理解し描ききることができるのか疑問に感じたのである。

 私の悲しみを描こうとする彼女は、もちろん私に「何が悲しいのか」、「どんな悲しみなのか」、「どんな風に悲しいのか」、「癒されることはないのか」などを尋ねることだろう。果たしてそれで私の悲しみを理解し、そして描くことができると言うのだろうか。その描かれたものを示して、これが「私の悲しみ」なのだと私自身を説得することができると信じているのだろうか。

 私にはそうした彼女の、悲しみを描こうとする思いそのものが、そして画家として他者の悲しみが描けるとの思いそのものが、とてつもなく傲慢に思えてならない。

 人は結局、他者を理解できないように進化してきたのではないだろうか。世の中は家庭や職場や政治、国家なども含めて、互いが理解できる集団で成り立っているかのように思える。多数を得た政党が国を動かし、会議や上司の意思で会社が回っていく。仲間数人と飲み会を開いて胸の内を語り、夫婦の会話で「そうだ、そうだ」と互いが納得する。そうしたことで私たちは互いが互いを理解したと思う。だがそれは本当に理解しあっていることを表しているのだろうか。もしかしたら理解だと錯覚しているのではないだろうか。

 そもそも「互いが納得した」とは何を意味しているのだろうか。我慢とか妥協、そして諦めや敗北、そんなこんながない交ぜになって一つの理解というスタイルが形成されているのではないだろうか。そんな思いの中に私たちは、集団というものを作り上げているのかも知れない。互いを理解できない個々人が、互いを理解できないままに妥協しあう集団、それが私たちの生きている世の中の現実の姿なのかも知れない。

 だとするなら、「他者を理解できる」なんぞは思いあがりだろうし、ましてやそんなことを口にするのは傲慢なのではないだろうか。他人の悲しみなんぞ人は理解できないのだし、理解しようとする思いそのものが傲慢なのではないかと、私はどこかで自分に言い聞かせようとしている。

 「汚れつちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れつちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる・・・」、脈絡もなく中原中也の詩が口をついて出る。「俺の悲しみなんて誰にも分るもんか・・・」なんて言っちまったら、それはそれで余りにも悲しすぎるけれど、それでもそのことにどこかで納得している自分を感じてもいる。


                                     2014.2.19    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



悲しみの数