携帯電話(スマートフォンを含め以下「携帯」という)がこれだけ普及してくると、私のように持っていない人種は逆に希少価値を持ってくる。そうした希少価値人種が持っている多数派について意見を言うのは、多数派であることの実体を知らないままに情緒的に判断する間違いを犯しているのかも知れない。ただ、巷間の多くの意見は携帯批判にあるような気がしているのだが、そうした意見に対してもへそ曲がりはやっぱりへそを曲げることがあるのだということを少し書いてみたい。

 動機となったのは、つい先日の新聞に掲載された読者の投稿文であった。私と同じ携帯を持っていない女性からの投稿であった。

 「私は携帯電話を持っていません。・・・携帯は確かに便利でしょう。でも皆が携帯を持ち、何かおかしいことが増えてきています。仕事中に携帯をいじる人、会議や話し合いの最中に鳴り響く音、人と話している途中に電話に出る人。そんな時、周りの人はどんな気持ちでしょうか?。・・・それっておかしくないですか?。私が一番嫌なのは歩行中も携帯を見ている人です。『携帯に支配されているんですか』と思ってしまいます。人への思いやり、マナーを忘れていませんか?・・・」(2014.2.11、朝日新聞、読者投稿「声」、51歳女性臨時保育士)

 携帯の流行に対して「私は持たない」と主張し、使い方に対して「私は嫌だ」と思うのはよく分かる。分るというよりは、その人がそう思ったということにそれはそれでいいと思うからである。人が他人の仕草を見てそれに好き嫌いを感じたり、「他人の振り見て我が振り直せ」と思ったりすることは、まさに自分らしさをそこに作っていこうとしているのだから、とやかく批判をすることはないだろう。

 映画館でポプコーンを食べることや電車で居眠りしているのだって「私は嫌だ」と言われたら、それはその人の好悪の問題として尊重もする。だからと言って、ポプコーンを食べるのを禁止したり眠っている乗客を起こすことまでを認めるわけではない。思った本人が自ら映画館での飲食をしないことや電車での居眠りをしないことで足りるだけのことだからである。

 それを携帯への好悪にまで拡大して、「それっておかしくないですか」とか、「人への思いやりやマナーを忘れていませんか」などと、一般論にまで拡大してしまうのは、どこか変だと私には思えてしまうのである。「何がおかしいのか」、「どういう点がマナーに反していると思うのか」を具体的に示さないまま、あたかも「自分の意見が世の中の意見だ」みたいな論調で話題を拡大してしまうのは、余りにも身勝手過ぎるのではないだろうか。

 携帯の問題だけに限らないのかも知れないけれど、今の世の中はある特定の問題、例えば「世代」、「習慣」、「特定物」などなどに対して、「最初から何らかの悪がある」ことを前提、もしくは一部の例を全体にまで拡大して批判することが多いように思う。

 この投書の女性が、携帯が悪であることを示している事例は次の三つである。「仕事中にいじること」、「会議や話し合いの途中の呼び出し音」、「話し合いの途中に割り込み」の三つが、「おかしい」ことであり、「マナー違反」であり、「思いやりの欠如」であると主張する。

 恐らく投稿者の意見としては、これらの事実に対して「私が迷惑を受けた」と言う限度を超えて、「社会の多くの人に対して迷惑を与えている」との感触が強いのであろう。だからこそ自分ひとりの胸に収めておくだけは足りずに、こうして新聞投稿という形で世間に発表することにしたのではないだろうか。

 でも投稿者は何一つとして「携帯電話による世間の受けている被害」についてデータを示していない。仕事中にいじりまわしていることだって、例えば仕事中にタバコを吸っていたり私用の買い物に行くなどの行為とどこが違うと言うのだろうか。会議や対話中の呼び出し音だって、呼び出し音が鳴らないようにマナーモードに設定しておくことの問題であって、携帯そのものの悪ではないはずである。また、会話中の割り込みだって、緊急な連絡や大事な用件なら受容できるはずである。

 どんな物にだって、功罪はあるだろう。車社会は便利さや快適さの裏に交通事故を秘めているし、おいしいケーキの裏には肥満や糖尿病の危険が隠されているかも知れない。テレビがかつては一億総白痴化のマシンだと呼ばれた時代を私は経験しているし、相対性原理の追求はもしかしたら原爆の開発とつながっていたかも知れない。

 私は投稿者も含めて多くの意見が交わされることを、そんなに悪いことだとは思っていない。しかし、証拠や事実を示さないままに、自らの主張をあたかも世論がそうであるかのように装って議論することには反対である。
 証拠なり事実を示さずに提起するということは、要するに「何か具体的な悪が起きた」というのではなく、「何かしでかしそうだ」と言う予感だけで、まな板にあげることになっていると思うのである。

 私は数年持っただけでここ10年ほど携帯の利用経験はないので具体例をあげることはできないけれど、携帯にも悪い面も良い面も沢山あるだろうと思うのである。それは携帯に関わらず、世の中のあらゆることに同じような理屈が言えるであろう。車やテレビなどの物質に限らず、学問や研究やスポーツや宗教、果ては麻薬にだって、それぞれに様々な功罪があるだろうし、そのあること自体の中に私たち生きているのだし、それを社会と呼んでいるのだろう。

 だったら投稿者が思うような意見があってもいいではないか、との理屈が分らないではない。でも見かけだけで捉えた物事の是非を、あたかも世論がそうであるかのように装って議論することは、実体から離れた空論になってしまうような気がしてならない。

 それが世の中の流れなのだという人がいるかも知れないけれど、例えば茶髪の若者を見ただけで「今の若い者は」と一くくりにしてみたり、東京都知事選挙で立候補した元自衛隊幹部に20代の若者がけっこう多く投票したことに右傾化しているなどと危機感を煽るなどは、「自分だけが正しい」との偏見を他者にも無理やり押し付けようとしているような風潮が感じられてならない。

 確かに電車のいたるところで携帯をいじりまわしている老若男女の姿に、違和感はある。それは多くの人が同じ時間帯に同じ行動をとっているという、一種の画一されたロボットのような動きに対する違和感なのかも知れない。北朝鮮の軍事パレードのように、スイッチ一つで同じ行動を繰り返す無機質なパターンに対する不気味さを感じるからなのかも知れない。

 でもそれだけではないのではないだろうか。私にはそうした違和感の背景に、一つの前提としての「何も有用なことはしていないはずだ」、「きっと下らないゲームに興じているはずだ」、「おおかた仲間と愚にもつかないやり取りをしているに違いない」などと言った先入観の先行、つまり思い込みがあるように思えてならない。

 そしてそうした思いが、「読書をして教養を高めるべきだ」、「新聞を開いて社会や経済の動きに思いを馳せるべきだ」、「沈思黙考して自らの今後に思いを巡らすべきだ」などと言った、正義であるとか常識であると信じたい「・・・すべきであると思っている行動」を無意識に重ねているからなのではないだろうか。たとえその実態が、「猥褻な小説」であったり、「競馬新聞」であったり、はたまた「単なる居眠り」であったとしても・・・。




                                     2014.2.13    佐々木利夫


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