消滅時効(一定の期間自らの権利を行使しないでいると法律上の権利そのものを主張できなくなってしまう制度)の背景にある考えは、「権利の上に眠る者を保護しない」である。例えば長い間、立ち退きや支払いの請求がなかったこともあって、他人の土地を自分の土地だと信じ込んでいた場合であるとか、飲食店での借金を既に支払い済みだと勘違いしていた場合などがそうである。

 でもそれは、権利ある者が権利のあることを知っており、かつ権利を行使できることを知っていて、しかもそれにもかかわらず行使しなかったときの話であり、債務者がそう信じたことに責任がなかった場合である。つまり事実上権利を放棄したとみなせるような状況が長く続いていた場合に適用される論理である。

 時効制度は民事の所有権や債権に限らず、刑事事件にもあるから飲食店の借金に限定されるものではない。つまり、権利の行使をしないことが権利者の責めに帰することのできない事情による場合であっても、その「権利を行使しない」という事実のみでその権利の行使が否定されてしまうのである。

 たとえば殺人事件があっても有罪とするだけの証拠が見つからず、結果的に「起訴する」という権利を検察官(意味的には国)が行使できなかったときは、起訴できなくなるのである。世界の国の中には殺人事件などには時効を認めないケースもあるが、そうした国でも一定の犯罪には時効制度を導入していることが多い。

 時効制度の目的は恐らく正義の履行を諦めたり正義の行使を断念するというのではないだろう。それは時間が経つにつれて正義そのものを立証することが困難になるだろうことや、現れている現実が仮に間違っていても:そうした間違いに沿って現実が動いている場合などにそうした状態を維持しようとするものであろう。

 だが老齢で失念していたときや、知識不足であるとか認知症やがんなどで権利そのものを事実上行使できるような状態にないときにまで、こうした論理は適用されるべきものなのだろうか。

 また時効制度によって利益を得るのは、弱者のみに限られるものでもない。例えば強大な力を持つ債務者が、債権者の弱みや知識不足につけこんで時効完成を理由に債務を免れようとする場合もあるのである。

 消滅時効のケースを私たちが知ることができる機会は、多くの場合マスコミ発表に限られている。それは時効によって利益を受ける者がその適用を裁判所に「援用」という形で主張しなければならないからである。もちろん裁判は原則として公開されているから、裁判所に出向けば時効の援用が争点になっている事件を知ることは可能である。そうした意味では国民は常に知ることができるようになってはいるけれど、現実的にはそれを知ることはない。裁判を傍聴しないことが国民の責めだと言えばそれまでのことだけれど、時効の援用が裁判所に専権的に与えられている現実は、この制度が現実世界で動いていることにどうしても私たちの知識からは遠くなってしまう。

 力ある者が当然のことのように時効を援用する例はあちこちに見られる。例えば官庁である。市町村は固定資産税を賦課する権限を有しているが、計算誤りなどで過大に徴収してしまい差額を還付しなければならないような時がある。こうした場合の還付できる期間は、通常5年とされている。つまり、5年前までの誤徴収による差額は返還するけれど、6年より以前の分は返還しないのである。

 住民といえども間違いによって過大に徴収された税金は自ら力で直ちに返還を請求できるのだから、その請求できる権利を6年も7年もの期間行使しなかったのだから請求権を失うとする論理である。これは徴収権とも連動している。つまり市役所が間違いに気づかず過小のまま放置してした場合、それも一定の期間を経過することで市も追加請求の権利を失うのである。

 生命保険会社の保険金未払いも同様である。例えば生命保険契約に「死亡」以外に「入院特約」がついていたとする。数十日の入院の結果死亡した場合、「死亡」、「入院」、両方の保険金が受け取れることになる。だが相続人がそうした契約に気づかず、死亡保険金だけを請求することがある。それは相続人が保険契約を十分理解していなかったというミスである。こうした例は、特約が複雑に組み合わせられている現在の契約の場合にはそれほど珍しくなく発生する。

 専門家である生命保険会社が契約内容を念査して、正しい内容を契約者なり相続人に通知してくれるならそんなことは起きないのかもしれないが、会社が不注意で気づかなかった場合、気づいていても会社の不利になることだから気づかない振りをしていた場合など、事実上被保険者側がきちんと請求しないとこれらが表面化しないことがある。

 これもまた請求できる権利を契約者なり相続人が行使しなかったことになるから、その行使しなかった期間が長期に及ぶ場合は時効の問題が起きてくる。つまり、請求しなかったということで、請求権を放棄したものとみなされ、保険会社は支払うべき特約の保険金の支払いを免れることができるのである。

 法律が時効制度を定めることはいいと思う。時効制度の意味も必要性もよく分かる。だが、時効制度には常に債権者と債務者の両者が存在し、そして消滅時効もまた一種の法定された契約である。だとするなら、前提として契約当事者同士は対等だと思いたいのである。だから、一方が法律の専門的知識を有する力を持ち、他方がそうした知識を持つことが期待できないような立場にある場合には、それを対等と呼んではいけないのではないかと思うのである。余りにもバランスを欠いた当事者が対立する立場にある構図を、法律が対等者として扱うことに私はどこか違和感を抱いているのである。

 確かに権利の上に眠る者は、それなり責められても仕方がないと思わないではない。だが「権利を行使しなかった」ことだけを捉えて、それを一律に「眠っていた」と認定してしまうことは果たして妥当なのだろうか。知らないことや無知や勘違いなどを、すべて「自己責任」の中に押し込めてしまうことは、果たしてどこまで妥当なのだろうか。


                                     2014.11.20    佐々木利夫


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権利の上に眠る者