今朝のNHKテレビ「明日へ支えあおう」は、福島における漁業を中心とした放射能風評被害との戦いを示すものだった。そのほとんどは納得できるものだったし、応援したいとも思える内容だった。ただ、その中で必ずしも番組の責任だとは思わないのだが、気になる一言があった。それは表題にとりあげた「検出限界値」という言葉であった。

 放射能測定器で計測した放射能値が「検出限界値以下」であるとして、これで福島の魚や野菜などを安心して食べることができることの一種の宣伝に使おうというものである。いってることが分らないではない。むしろ、こうした表示は消費者に見える形で安心感を与える手法として評価を与えたいとも思った。

 だが番組を見ながら、「ちょっと待てよ」といつもの私のへそ曲がりが頭を持ち上げてきたのである。この疑問は具体的に私の中で検証できているのではない。だからそんな「ふと、感じた」程度でこんなことを言うのは軽率かも知れない。でも、私の少ない知識ながら、この「検出限界値」という言葉には、どうしてもクエスチョンマークをつけなければならないのではないか、と思ってしまったのである。

 言葉の意味としては、「放射能測定器によってある品物の放射能を量ったところ、検出はされませんでした」ということである。それ以上でもそれ以下でもない。ただそのとき私は思ったのである。「検出されませんでした」という意味はまさに、その測定器のメーターの針が動かない、「ゼロ」を示しているということである。だったら、どうして「放射能ゼロ」と言わないのだろうか・・・、そんな風に私は思ったのである。

 そして、測定器のメーターが振れないことと「放射能値がゼロである」とは何の関係もないということに気づいたのである。それは現実的に「放射能ゼロ」ということはあり得ないことを、これまでの私の知識で知っていたからである。理論的に「放射能ゼロ」はあるだろう。だが自然界には、宇宙線や地殻に含まれる微量の放射性物質の存在、それに第二次世界大戦を契機に開発された原子爆弾の研究や実験、原子力発電の広がりやその事故などによる放射能の拡散などなど、世界中に放射能は広まっているからである。そしてその放射能は「測定できない」ほどの微量ではなく、南極の氷からも検出・測定できるほどの量になっているということである。つまり、どんなに微量であっても現在の科学技術で検出できるということである。

 さてこうした知識をもとに、今朝のテレビ番組の「検出限界値以下」という熟語の意味を検証してみよう。私の勝手な判断ではあるけれど、私には今の科学技術で「検出限界値」があるとはどうしても思えないのである。これは「検出限界値」という熟語そのものを否定するのではない。それは「放射能測定器」個々の性能によるものだと考えられるからである。

 測定器そのものの性能によるということは、測定器個々にそれぞれ測定許容範囲があるということである。この測定器は10〜100まで、この機械は0.5〜2.0までなどというように、測定器には個々に測定できる範囲かあると思うのである。

 もちろん0から無限大までを測定できるマシンがあれば問題ないだろうけれど、現実的には難しいだろう。例えば電圧計だって、100円ショップで販売されているものは恐らく「机の中に放置されている乾電池の残量がラジオや時計などに使える程度かどうか」を判断できればいいのだから、電子一個の電圧を測ったり雷の電圧を測るような能力までも要求されてはいないだろう。つまり、放射能測定器といえども、ある範囲の測定が可能なように規格が決められて作られていると思うのである。

 そこで改めて「検出限界値」を考えてみよう。例えば政府が決めた安全基準値を「10」だとして、測定する食品の放射能値がその基準値を超えるかどうかの測定ができればいいとの規格で作られた測定器があるとしよう。理屈でいうなら、基準「10」だけを測定できればいいのだから、せいぜい「9〜15」くらいまでを表示できればいいことになる。測定値が「11」以上になったら食品の出荷を見合わせればいいのだし、「10」以下だったなら数値を使うことそのものが不要である。むしろ「9.5」などと表示されたほうが迷惑である。「10」以下は数字の表示ではなく、たとえぱ「安全」と表示されたほうが便利なのかも知れない。

 さてそこでメーター表示を「10〜15」にしておこう。メーターの最小値を「10」にして、針をそこを超えたら反応するようにするのである。放射能値「9.9」の食品があったとする。この測定器で測る限り、メーターの針はピクリとも動かないだろう。なぜならこの測定器は「10〜15」の範囲を示すのだから、その範囲を小さく外れたならピクリとも動かないし、「15」を超えたら針が振り切れたということになるだけのことだからである。

 この測定器による限り、「9.9」の食品は「検出限界値以下」となる。それはそれでいい。そのように反応するべく作られたマシンで測定した結果なのだから、それはそれで正しい表示となる。しかしながら、この食品は「検出限界値以下」であっても、それは「ゼロ」ではないということである。こうした言い方は擬人的で嫌だけれど、この測定器は政府の決めた安全基準に迎合した表示をするように仕向けられているのである。なんなら、強要され強制されていると言い換えてもいい。

 今日のテレビでの報道では、この測定器に関する「検出限界値」についてのコメントは何もなかった。少なくともその測定器が自然界に存在する放射能の値を超えると反応する程度の精度を持っていることくらいは解説してもよかったのではないだろうか。それとも「自然界よりは高いけれど政府の安全基準値を超えない」ことをも「検出限界値以下」のなかに紛れ込ませてしまおうとしたのだろうか。

 「測定限界値」という言葉に間違いはないのだから、それはそれでいい。しかし測定できるにもかかわらず、ある数値以下はできないように機械を製作し、意図的に「計測限界値」を表示させるような手段を私は感じたのである。そしてこの「限界値以下」という意味を、ことさらに「放射能ゼロ」と錯覚させようとしているのではないか、そんな気がしたのである。

 そして私にはこの報道が視聴者に錯覚を与えてようとする手段を助長しているように思えてならなかったのである。測定器の性能をあえて報道しないこと、限界値がどんな値にセットされているのかを知らせないで、結果的に政府の言う安全基準値の神話を検証なしに視聴者に押し付けてしまっているのではないか、そんなことを思ってしまったのである。

 「自然界に存在する程度の放射能値」こそ安全基準となるべきだと、私は少し思いこみすぎているのかも知れない。でも遺伝的なものまで含めるなら、放射能の影響はまだ誰にも分かっていないのである。安全基準値を「10以下」と定めても、自然界の放射能値が「2」程度なのだとするなら、「3〜10」についてもその食品を口にしたり、また生活する環境の人に対して、それぞれの人が自らの判断で選択できるような情報を政府は与えるべきだと思うのである。それが仮に風評と呼ばれて敬遠されようとも、それが政府としての責務ではないかと思っているのである。

 だから私は、仮にこの「限界値以下」の表示のある食品を見たなら、この食品の放射能はきっと安全基準と呼ばれる数値ぎりぎりまで高く、自然界に存する放射能値よりも数倍も高いのだろうと思ってしまい、手を出さないと思うのである。そしてそれが弱者の唯一可能な選択、「君子危うきに近寄らず」の自衛手段だと思うのである。

                                     2014.6.22    佐々木利夫


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検出限界値