団体や組織が国民や利用客などの意見を聞くという方法には、それを諮問、公聴会など何という名称で呼ぼうと様々なスタイルがあるだろう。最近はそうした手法の中にインターネットが含まれるようになってからは、意見聴取の機会が一段と増えてきたように思える。そのことは別に悪いことではない。むしろ「広く意見を聞く」という意味では望ましいことだと言ってもいいだろう。

 それでもなお私は、この頃(昔からそうだったのかも知れないけれど・・・)の意見聴取のシステムがどこか気に食わないのである。それはその結果が、主催する側の一方的な保身や利益誘導のための便法にされているように思えてならないからである。

 主催者の目的がそうした方向へ向かうのは、ある意味当然のことかも知れない。なぜならそうして集めた情報は、自らの主張や企業の方針、国の政策などを自らの望む方向へと誘導するために利用することが可能だからである。
 そうは言っても、そうした目的のために「広く意見を聞く」みたいな手段や名称を使うのは、その意見を寄せた人々に対する冒涜もしくは詐欺もどきになるのではないだろうか。それは民間企業のみならず政治や行政が実施する場合でも同様である。

 ただ私がここで言いたいのは、集約された意見が集約した側の利益のために、勝手に曲げられて解釈されたり利用されたりするケースがあることへの批判ではない。それ以前の問題として、「意見集約するための質問」そのものが既に曲げられている可能性があるのではないかと気になったことである。

 その疑問はいつも聞いているラジオから流れてきたアナウンサーの一言がヒントになった。土曜朝の通勤は、概ねNHKの「ラジオ文芸館」を聞きながら事務所へ向かうのを通例としている。ラジオ文芸館は著名作家の作品をアナウンサーが朗読する番組だが、事務所へ着く数分前に放送が終わることもあって通勤にはもってこいである。朗読が終わってNHKのお知らせが入ったときのことである。

 内容は、テレビも含めたNHKの今後の経営計画に対する視聴者の意見を、「インターネットを通じて募集しています」との内容であった。「お知らせ」の意味はよく分かる。NHKの経営計画に対する意見を、広く視聴者から求めようとする考えは、むしろ望ましいものだとさえ言えよう。

 NHKが視聴者から求めようとしていた意見は、@安心安全を守る放送機能の強化、A豊かで多彩なコンテンツの強化、B国際発信の強化、に関するものであった。その内容について、その時の私は特に違和感を覚えることはなかったし、変だとも思わなかった。

 ただしばらくして、求めようとする意見そのものが、前向きな内容を持つものではあるにもかかわらず、どこか偏っているように感じられたのである。番組モニターの募集などをはじめ、NHKが視聴者の意見を聞こうとする取り組みの数々は以前から知らないではない。だがその求めようとする内容はいつも同じような傾向のものに限られているのではないかと、ふと思ったのである。もっとNHKの根源的な問題に関する視聴者の意見を求めようとする質問には、あまりお目にかかったことなどないように思えたのである。

 そうした質問にはいくつか考えられるだろうけれど、とりあえず私が一番に思いついたのは次の二点であった。

 @ 受信料を半分にするための提言(別に半分でなくても、いいのだが)
 A 従業員や系列・下請け関係者などの不祥事を起こさないようにするための提言

 これらの提言を解決することはとても難しいだろう。様々な提言が寄せられたところで、どこまで実行できるかは多難であろう。少なくとも「善処します」、「前向きに検討します」、「再発防止に努めます」、「職員や関連企業の指導を徹底します」、そんな程度の回答で済ますことなどできないだろうことは明らかである。そんな安易な回答で許されるような提言なら、問題が発生してから個別に謝罪会見等で頭を下げれば済むことだろうからである。
 もしその提言を本気で実行したいと思うなら、血を流すような努力が求められるだろうし、しかも効果が表れるのは気が遠くなるほど先になることだろう。

 これに対し今回NHKが求めた意見は、とても前向きな形を持っている。どんな意見が寄せられたとしても、恐らく理想的な回答ができる内容を持っているようにさえ思える。もし難しい意見だったとするなら、「実行するにはお金がかかります、現在の予算の範囲内では難しいので将来的に検討します」くらいの回答で済ませることができるだろう。それだって受信料さえ値上げすれば可能になるのかも知れないし、場合によっては値上げの口実に使えるとも言えるだろう。

 今回はNHKの意見公募のアナウンスが気になってここに書いた。だが同じようなことは、北海道電力の電気料金値上げに関する公聴会、川内原発の再稼動に向けて原子力規制委員会が集約した国民からの意見の集約、政府の様々な諮問会議などなど、国民や市民の意見の取りまとめるなどと称する多くの場面で見ることができる。

 「回答に困るような質問は最初から設問の中に入れない」、「たとえ入れたとしても都合の悪いことは無視する」、そんな結論ありきのシナリオが、私の独断かも知れないけれど、多くの「国民の意見を聞く」というスタイルの中に、最初から組み込まれているように感じられてならないのである。

 集約した結果を自己の有利に変形したり、身勝手な解釈をすることはもちろん許されないことである。でも、それ以上に最初から「都合の悪い質問は作らない」、「作ったふりをして、都合の良い結論を誘導できるような質問にしてしまう」ことなどは、とうてい許されないのではないだろうか。

 へそ曲がりの老税理士は、こんななんでもないところにまで出しゃばって、無理やりへそを曲げようとしてる・・・、のかも知れない。


                                     2014.9.10    佐々木利夫


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国民の意見を聞く?