どんなときだって自分と他人との間には距離がある。それが夫婦関係、家族関係、人間関係さらには民族とか宗教にまで及んでいくのは、私たちが「個」を基本とした人間関係を持っていることの宿命なのだろうか。たとえそれを「親密さ」と呼ぼうが、はたまた「しがらみ」と呼ぼうがである。

 「男の女の間には、深くて暗い溝がある・・・」、こんな演歌を飲んだ後のスナックなどで定番にしてマイクを握っていた仲間がいた。そんな歌が歌い継がれているということは「人は人を理解できない」ことが前提になっているからなのだろうか。どんなことをしたって、自分以外の者の思いを直接「分る」ことはできない。少なくとも人は、そういうものとして作られ、進化してきたのだろう。

 その距離の違いの大きな原因は、基本的には自分の子孫を残すことにあるのかも知れない。人間の赤ん坊は、自力で生きぬくことはできない。昆虫や多くの魚類は、親は子を産みっぱなしである。自らの子孫の繁栄を望むことに生き物の使命があったのだろうが、その使命を生物はまず産むことから着手したのかも知れない。

 その場合の繁栄の条件は、多量の卵を産むことである。生き延びる困難さを補って更に生残るだけの数を産むという勝負である。孵化した幼生がどのくらいの期間で次の産卵まで成熟するか、複数の産卵期を迎えることができるかは種によって異なるだろうけれど、一度の産卵で自らの命を閉じるか、それとも数度の産卵にたどりつくか、そこにも種としての生存競争があったことだろう。

 だがそのうちに生物は多産の使命から開放され、子育てによって種の保存を維持しようとする。そうした頂点に人間があるのだろう。人間が自立できる年齢をどこで区切るかは難しいところだろうけれど、生殖だけを捉えるなら、恐らくメスで14〜15歳、オスで15〜16歳くらいだろうか。だが現代は自立の年齢をもう少し高め、18歳〜20歳を区切りとしている。つまり、人という種は20年間を他者の庇護の下、基本的には親に育ててもらわなければ自立できないものとしてこの世に存在しているのである。

 生まれたばかりの赤ん坊や、人間に限らずどんな動物も「かわいい」という基本的な動作や表情を持って生まれてくるのは、親や周りの人間からの庇護を受けやすくするための進化の成果だとする意見を聞いたことがある。

 そうしたとき、日本の人口だとや世界の平和、紛争の解決などと言った概念は少し遠のいてしまうのではないだろうか。結果的に生まれる子どもが育っていくことで日本の人口は増えていくかも知れないが、そのことと我が子を一人前に育てることとは少し距離感がある。つまり、「子供を育てる」ことの価値観と「自分の子供を育てる」ことの価値観との違いである。これは人間に限らず動物でも同様である。

 そうした価値観を私たちは「親子愛」だとか「肉親愛」などと名づけているが、これは果たしてどこから来ているのだろうか。そんなことは生物として当たり前のことで理屈じゃないとする意見もあるだろう。確かに生物としての基本的な性質なのだと言ってしまえば、それまでのことである。だが、もしそうだとするなら、産みっぱなしの魚や昆虫などにそうした「愛」は存在しないのだろうか。育児放棄や乳児を遺棄する母親の存在などはどう説明したらいいのだろうか。

 またほとんどの生物において、母親は育児に対して積極的ではあるが、父親はそうではないケースが多い。魚の一部にメスは卵を産むだけで育てるのはオスという習性を持つものもあるけれど、父の役割は交尾だけというものもまた、哺乳類も含めて現実には極めて多いことも知られている。そうすると、「育児」というのを必ずしも生物の特性として位置づけていいのかどうかには疑問が出てくる。

 こんなことを思いついたのは、夜のニュース番組で、「明治大学の新入生が8000人、父兄の参加者が10000人」という報道を見たからである(2014.4.7、NHK21時)。わが子の入学式への参加は、長く「受験戦争」に付き合ってきた親と子の戦友としての絆の表れなのかも知れないし、「入学したわが子」には当然に両親が存在するのだから、新入生の数よりも父兄の参加が多くなったところで不思議はないのかも知れない。

 それでもなお私の頭には、成人に近い若者が自らの勉学のために入学することを選んだ大学なのだから、入学式といえども自らの決意の表れとして自らの責任において出席する気構えが欲しいとの思いが消えなかったのである。

 またもう一つ、「核や地震の問題とは違うんです。我々の家族の命の問題なのです」(2014.4.21 NHK19時のニュース)の発言だった。これは北朝鮮に家族を拉致された者の意見である。拉致された息子、娘、そして肉親が異国の地で今でも生きているのか、いつ帰ってくるのか不明のまま、政府がなかなか動こうとしない事態に、家族が苛立ちを強めていることは分る。

 だから拉致された者の命を「家族の命」と呼ぶのを理解できないではない。それでもなお私は、それを核や地震の問題とは別だとして、それよりももっと重いと表現したことに違和感を感じたのである。言ってることが分らないと言うのではない。ただ、「私の家族の命」と「核兵器の使用による無差別で大量の、その他大勢の命」とは別異のものだとする考えに、彼我の距離感を感じ、それが私たちの日常になっているのかと、どこか引っかかるものを感じてしまったのである。


                                     2014.5.10    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



他者との距離