人が弱い存在であることくらい、人間を70数年やっている自分が一番よく分かっているつもりではある。それでもなお、どうして人はこんなにも目先の利益にばかり目が向いてしまうのだろうかと悲しくなることもある。しかもそれは、目先の利益にこだわらないことが人として望ましい姿勢だと自から信じ、かつ、他者にもそうした思いを伝えていながら、時として矛盾する行動に出る場合があるのは人の持つ性だからなのだろうか。

 数ヶ月前のことになるけれど、安倍内閣の前の石原環境大臣が「結局金目でしょう」とのたもうたことが世間の顰蹙を買った。原発事故の復旧、復興に関して、被災地の住民の意思はつまるところ補償金をもらうことにあるのではないかとの本音がつい口から出たものである。

 日本人には金の問題を、どうしても「汚い」とか「正義ではない」などと無意識に遠ざける習性がある。宵越しの金を持たないという江戸っ子の気風を、どこかで潔しとする思いが伝統的に残っているからなのかも知れない。たとえ本音では金が欲しくてもである。「金が敵の世の中」であると自認しつつ、「せめて敵にめぐり合いたい」と心の中で思っても、そのことを口に出さないのが日本人だとどこかでやせ我慢するのが私たちの共通した思いなのかも知れない。

 原発の再稼動が現実のものになろうとしている川内原発の地元住民の声である。賛否両論あることは承知だが、反対意見は概ね「安全神話など信じられない」、「放射能廃棄物の最終処理が決まっていない」を根拠とするものである。

 だから賛成する側の意見は「安全策は政府や電力会社の今の説明で信頼できる」、「廃棄物処理も国が責任を持つと言っているのだから安心できる」などがあがるかと思ったらまるで違っていた。政府や電力会社の言う「安全」に対する評価の違いなら、意見としての対立点ははっきりしているのだから、それを対比していくことで議論することができるだろうからである。その安全に対する評価がどこまで納得できるかさせられるかどうかは別としても、対立の構図を明確に描けるからである。

 ところが原発再稼動に賛成する住民の意見はこれとはまるで異なり、「原発がないと生活していけない人がいる」とか、「原発によって街が潤う」とするものが多数であった。これでは反対意見とは対比できないのではないだろうか。「将来まで含めた絶対安全の確立」と「街の今の生活がかかっている」みたいなテーマとは、私にはどうしても比較できないように思えてならなかったのである。

 もう一つ、まるで違う話なのだが、札幌で今年(2014年)9月11日に起きた豪雨災害に関してであった。翌日の新聞は、こんな内容を伝えていた。

 「『数十年に一度』の災害に警戒を呼びかける大雨特別警報が11日、道内で初めて発令された。約88万人に避難勧告が出され、・・・大気が不安定な状態は12まで続き、雷雨や土砂災害への警戒が必要だ」(2014.9.12、朝日新聞)。
 「
(札幌では)延べ78万人に勧告を出したが、実際に避難した人は一番多いときで479人(だった)」(同上、朝日新聞)。

 札幌市内の情報によると、78万人に対する避難勧告に対して実際に避難した人は僅か479人に止まっているのである。たったの0.6%の人しか避難しなかったのである。そして更に言いたかったのは、避難勧告が予想したような災害は結果的にではあるが起きなかったことである。

 災害などに対する警告などには様々なものがある。こうした情報は多くの場合、中央官庁から地方自治体への指令、伝達という形をとる。そして現実に動くのは自治体などの現場の組織である。そうした時、現場がどんな場合にも臨戦態勢で備えていられるかはとても疑問である。理論的には即座に対応できる要員を、24時間待機させておくことが可能ならばそれはそれで完璧である。だが災害は時刻を問わず、また規模や所を問わずに突然やってくる。そうした事態に対して、常に臨戦態勢を敷いておくようなシステムを望むことなどは、職員数や人件費、更には機材や設備の配備などを考えるなら不可能である。

 どんな災害が起きても、全ての住民が安全に避難できるような体制を常に整えておくことの必要性は、頭では考えられるだろうけれど実際には無理である。未曾有の災害が真夜中に発生した、さあどうする。発生する前に住民に警報として知らせておき、住民の自己責任として自主的に避難させるのも一つの方法である。だがそうした警報はあくまで予測でしかない。起きるかも知れないし、起きないかも知れないのである。

 それが今回の札幌での避難勧告であった。中央官庁は「空振りを恐れずに避難勧告を・・・」と言うけれど、避難計画を実施する側にしてみればそれほど簡単なものではない。そして空振りになる場合がある。中央からの指令に躊躇している間に災害が発生したときには、マスコミからの総叩きが始まるだろうし、予測や警告が外れたときは、避難勧告を受けた者から勧告の信頼性に疑問を持たれることになるだろう。もちろん、住民に対して日ごろから「空振りを恐れず、直ちに避難するように」と指導を徹底することはいい。だが空振りの程度が余りにも大きかったときには、住民は警報を信じなくなっていくことであろう。

 今回の札幌の78万分の479という数値を、どう見るかは立場によってそれぞれだろうけれど、少なくとも警告を受けた住民のほとんどがその警告を信じなかったのである。極端に言うと、「警告なんぞあてにならない」とほとんどの人が思い、そして思ったとおりの結果になったのである。市の発した警告よりも自分の直観の方をほとんどの人が信じ、そしてそれが正しかったのである。

 これもまた、目先の利益に惑わされたことになるのかも知れない。避難するためには、戸締りや貴重品の持参など、様々なリスクがある。「命のリスクには代えられない」と言えばそれまでだが、どこかで内心の声が、「そんな大げさに考えなくても大丈夫」と囁いている。

 こんなケースはあらゆるところに見ることができる。イギリスでは一昨日(18日)、とんでもない住民投票が行われた。英国領土の一部であるスコットランドの独立を認めるか、現行の帰属を継続するかをスコットランド住民の選択に委ねるというものである。独立にYESかNOかを問うだけの、単純でしかもとても重たい投票である。投票は日本時間の19日朝6時に締め切られた。そのYES,NOを目先の利益の理屈だけで割り切ることは難しいだろうけれど、それぞれの意見を聞くたびに「独立という観念的な理想」と「今の安定を維持できるのか」という、理想か目先かというテーマがぶつかっているような気がしている。

 投票結果は200万票対161万票で「現状維持」、つまり独立NOで決着がついたようだ。結局は独立という自主自立自尊の道よりも、通貨や物価の安定という目先の利益を選択したことになるように私には思える。だからと言って、目先の利益に従うことを非難しようとは思わない。

 ただ、過ぎ越し自らの人生を振り返ってみると、己の中にも常に正義や真実などに彩られた「べき論」を支持するみたいな感覚と、利己的な「今日のご飯」とを比べてしまう意識とが根強く葛藤を繰り返していることを、否応なく感じさせられてしまう。

 それが人なのだと割り切ってしまえと囁く声が聞こえはする。それが人の持つ弱さなのだとも、その声は囁いている。だがその囁きにはいつも、どことない苦さが漂っているように私には思えてならない。


                                     2014.9.20    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
目先の利益