大阪市教育委員会での荒れる学校対処法の話である。「荒れる学校」は日本に限らず世界的にも問題視されているが、これと言った決め手は見つからないようである。大阪の話も試行錯誤的な試案として呈示されたものだと思うが、内容が具体的(実行可能)であること、そして刺激的であることなどから、いわゆる識者の評論の俎上にあがることになった。

 どんな問題もそうなのかも知れないけれど、教育の問題もまた様々な対立を生む。対立の原因には色々あるだろうが、教育問題は特に「その方法が果たして生徒にためになるのか」の視点が中心になる。そしてその議論は得てして「生徒自身の立場・視点」からによるではなく、大人からだけの展開になってしまうことが多いような気がする。その大人とは、政治も教育関係者も父兄も、そして教師も同様である。そしてそれぞれが、生徒、子供たちを人質にとった、保護のためと称する理論を好き勝手に展開する。

 教育だろうが政治だろうが、色々な人が色々な意見を述べることはむしろ望ましいことである。専制君主が決める一人独裁の判断が、時に一つの割り切りになるだろうことを否定はしない。だが、私たちは様々な議論をすること、そして議論の後に生まれた多数の意見に従うとの方法を民主主義のルールとして互いに約束したのである。だから、他に更にベターな代替案でもない限り、そうしたルールに従うことを守らなければならないだろう。

 さて、問題となったのは大阪市の教育委員会が、「授業妨害などの問題行動を繰り返す児童・生徒を学校から引き離し、1カ所に集めて指導する『特別教室』を設けることに決めた」ことに対してであった。色々な人か色々な提案をし、賛否を議論することに異論はない。
 ただ、朝日新聞が社説でこの問題を取り上げ、それに対する意見を述べた内容が、どうにも気になったのである。公器ともいえる新聞社がこの程度の意見で「社説としての意見を示した」と済ますことに、どうにもやりきれなさを感じてしまったのである。

 その社説とは、こんな内容である。「・・・何より。『悪い子』を分けることが、本当に『よい子』のためになるのだろうか。・・・少子化が深刻な社会問題となっている。どんな子も社会に居場所と役割を見いだせるようにしていくことは、社会を守ることにつながる。そんな視点で全ての大人が力を出し合うときがきたのではないか」(2014.6.23、朝日新聞、社説)

 言ってることに特に異論はないように思える。社説の示す基本となる考えは、恐らく「どんな子も社会に居場所と役割を見出せるようにする」ことにあるであろう。だとするならそうした考えに反対する人はいないだろう。「どんな子にも幸せな社会を」と願うのは、恐らく世界の誰もが一点の曇りもなく賛成する共通した思いではないかと思う。そうした意味での社説の見解は、反論を許さない力を持つ揺るぎないフレーズである。

 でもその意見は、少なくとも現状では単なる空論に過ぎないように私には思えてならないのである。空論だから間違っていると言いたいのではない。空論だって理想論だって、人々がそれを望んでいるのなら決して間違いではない。ただ私は、「とても実現が難しい」と言いたいのであり、場合によっては「不可能な思いなのではないか」と言いたいのである。そして、だからこそそれを「一つの答」にしてはいけないと思うのである。

 だからと言って、そうした空論が無駄だと言いたいのではない。理想過ぎる思いだろうが、実現が遠い彼方の不可能と思えるような思いだろうが、人が望む思いならばそれに向かって少しずつでも努力すべきであろう。だが、こうした思いには一つだけ、致命的な欠陥があるように私には思えてならない。

 いずれそうした理想は実現するだろう。「どんな子も社会に居場所と役割を見出せるような社会」が私たちの前に燦然と輝くかも知れない。その実現がどんなに遠く、どんなに困難であろうとも、そこまでの努力を人は必ずやなし遂げることだろう。それはいい。間違いではないし、称賛すべきことである。だがその実現までに、どれほどの時間を要することだろう。明日か、明後日か、それとも今年中か、一年後か、10年後か・・・。私には10年を経てもまだ難しいように思えてならない。

 もちろん「社会に居場所を見出せない子供たち」の中には、加害する側も当然に含まれることだろう。むしろ加害する側にこそもより重い保護なり教育が必要なのかも知れない。ならば、それまでの間、被害を受ける側として今そこにいる、「社会に居場所と役割を見出せない子供たち」の存在は無視していいのだろうか。「イジメ」や「学級崩壊」や「校内暴力」がどんなに激しくても、弱い子供たちは社会や学校がイジメなどを解決してくれるまでの間、ひたすらに耐えるしかないのだろうか。朝日新聞の社説には、こうした被害を受ける側への解決策なり配慮が一つも書かれていないような気がする。

 もちろん社説のような「子供に優しい社会」が実現すれば、問題は全て解決するだろう。だがその行き先は余りにも迂遠である。着陸点を空想することはできるけれど、どんな形になるのか、それはいつになるのかなど、私にはまるで見えてこない。恐らく現時点では誰にも見えないのではないだろうか。

 世界のどんな苦痛や苦渋や悲惨だって、「人類皆兄弟」みたいな社会が実現するならたちどころに解決するだろう。「戦争」「テロ」「犯罪」「公害」「温暖化」などなど、世界の誰もが「争うことなく仲良し」になれるなら、どんな不都合だってこの世から消すことは可能だろう。でもそうした社会の実現が仮に「究極の答」として望ましいものであったとしても、そうした社会の実現を「今の答」、「目の前の答」にしてはいけないと私は思っているのである。

 「問題児を分離する」ことが、究極的な解決になるとは思わない。でもそうした手段によって、少なくとも「問題児から被害を受けている子供や学校」を守ることになることだけは間違いない。その選択はつまりは、「問題児が発生する加害の重さ」と「受ける側の被害の重さ」の比較になるのではないだろうか。

 大阪市の決定は、確かに被害を受ける側の重さを軽くすると同時に、加害側を分離するという制約を加重する。それが等しい重さなのかどうか、つまりバランスがとれているのかどうか、私に必ずしも答えはない。でもそのバランスに触れることなく、加害側の分離のみを問題だと論じる識者・教育者そしてこの社説の意見に、私は納得できない思いを抱いているのである。

 私はバランスについての答を持っていないと言った。それでも現実に起きている問題児に関するの様々の問題は、天秤の一方の皿には時として「死」が載っているのに対し、もう一つの皿には「加害の認識すら希薄」程度の思いしか載っていない場面が多いように私には思えてならない。だからこそ私は、耐えるだけを強いられてように見える子供たちを守るためにも、加害の側を何らかの形で分離して指導することは、より良い解決策が見つかるまでの必要な措置として認めてもいいのではないかと考えているのである。

                                     2014.7.3    佐々木利夫


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問題児の分離