テレビのコマーシャルで、「チャージのいらない電子マネー」という話題を放送していた。様々な買い物のできるカードが多数発行され、「お財布携帯」などと言われて携帯電話そのものがカード代わりになるなど、かざすだけで買い物のできるシステムが広がってきている。つまりカードはカードの形体を超えてその実態が広がっているということである。恐らく将来はカードも携帯も不用になり、指紋認証や虹彩認証などだけで買い物ができるようになるのも、それほど遠いことではないだろう。

 我慢というのが、人の生活にとってどこまで必要なのか、それとも極端に言うなら我慢は人の自由を束縛する行為として許されないことなのか、私は必ずしもきちんと理解しているわけではない。食べたいときには食べる、欲しいときには手に入れる、避けたいことは避ける、なんなら死にたいときは勝手に死ぬことまで含めて、人がそれを望むならどんな行動も認めてやるべきではないかとの思いを、必ずしも理解できないというわけではない。

 でも少なくとも私は、「満足を手に入れる」ことに対して相応の対価が必要なのだと教えられてきたし、それを正しいものとして人生を実践してきた。そして「我慢」がときに得たものに対する期待以上の評価の向上にもつながるのだと信じてきた。我慢が食べたものを一層おいしいものと感じる自らの味覚に拍車をかけ、得られたおもちゃや本や電気製品など、身の回りの様々に対して、思っていた以上の喜びであるとか大切さを伝与えてくれたからである。

 反対に我慢することは一種の断念でもある。我慢している期間が短かくて満足への欲望がすぐにも消えてしまうのなら、わずかの我慢で断念する気持ちそのものが消えてしまうだろうから問題は少ないかもしれない。だが、望むものが必ずしも直ちに得られる保証はない。望んだままで永久に手に入れられない場合だってあるだろう。そうしたときの我慢は、我慢であることを超えて得られたであろう満足の放棄を意味することにつながる。つまり、そうした場合の我慢とは断念であり、満足を得ることが不可能であることを自分の身に説得することになる。それは考えようによっては理不尽である。「欲しい」という人の望みや尊厳を真っ向から否定することになるからである。

 人は安易に断念をすべきではないだろう。果てない望みは、ときに「夢想」と呼ばれて仕方がないのかもしれない。だが望みを失うとき、人の進歩はそこで止まってしまう。そのため人は「努力」という代替手段を見つけ出した。たとえ夢想と呼ばれようとも、「得たい」とする要望を実現させるために人は「努力する」ことの中に望みを託したのである。

 「チャージ不要」とは、カードの利用可能残高が不足してきたとき、または残高が一定額以下になったときに自動的に必要額を補充するシステムである。その補充により、残高を意識することなくカードを利用することのできるシステムである。もちろん自動的とは言ってもその原資は自分の預金、もしくは銀行からの自動借り入れである。恐らくは普通預金からカードへの自動振込みである。理屈の上では単なる「預金を降ろしてカードへ振替える」という手数や手間を省くことを意味している。単に右のポケットから左のポケットへ移すだけのことである。

 だがそれは「意識して預金の振り替えをする」という預金者の思いを、決定的に欠くことになる。理屈ではカードに残高が増えた分だけ預金が減ることを意味するのではあるけれど、効果としてはカードには常に利用できる額が残っていることになるのである。カードだけを見るなら、あたかも打出の小槌がその中に組み込まれているのと同様の効果が目の前に存在しているのである。

 確かにそれは自己責任である。自動的にチャージできる仕組みは、金融機関と利用者の契約があるからである。預金が減ってカードに振替えられる仕組みはカード利用者本人が承認し選択したものである。だが自動的にチャージされる仕組みは、その仕組みを利用する者の頭を麻痺させる。カード残高だけが勝手に増えていくという錯覚を与えてしまうのである。それを錯覚というのはたやすい。自己責任という契約を交わしたことの忘却を責めることもいいだろう。それでもなお人は弱い。こうした麻痺させてしまう仕組みを、単に自己責任という言葉の中に埋没させてしまうことに、私はどこか抵抗を感じているのである。

 そしてさらにカードには、リボ払いという仕組みが加わった。リボ払いとは「リボルビング払い」の略であり、毎月の支払額が変化しない仕組みのことをいう。2万円の品物を10回払いで買う。毎月の支払いは2千円と2万円に相応する利息の合計額である。翌月になって、今度は5万円の品物を同じく10回払いで買うとする。最初の月の支払いは2千円+利息であるが、翌月はこの他に5万円の10回払いの5千円とそれらに相応する利息の支払いが加わるので7千円+利息ということになる。

 だがカード利用者が毎月2千円のリボ払いを選択すると、支払額が2千円を超えることはなくなるのである。確かにカード利用者の債務は2万円+5万円の7万円になるけれど、毎月の返済額は2千円をベースに計算されるのである。7万円の債務に対する利息がいくらになるのか正確に計算できないけれど、7万円+利息が毎月の2千円の弁済の繰り返しにより消えてしまうまで弁済は続いていくことになるのである。そして更に危険なことは、利用者がリボ払いを選択する限り、仮に更に新たな追加の買い物をしても、それでも毎月の返済額は2千円がベースになるのである。

 「毎月の返済額2千円」、こんなあたかも返済する額がゼロであるかのような神話の下で、債務はどんどん増えていくのである。毎月の返済額が2千円というリボ契約が永久に続くとは思わない。債務累計が一定額を超えるようになった場合、恐らくそれまでのリボ契約は失効することになるだろう。それでも債務が増えても定額弁済で済むという呪縛を内部に潜ませたリボ契約は、「債務の増加」という感覚を麻痺させるという記憶を人の心に植えつけてしまうと思うのである。

 ある人にとって毎月の返済額が苦痛とならない範囲は、それぞれに異なることだろう。でも苦痛にならないという事実と、債務残高を覚醒させないという事実を結びつけしまったこのシステムは、債務そのものの存在を麻痺させる恐さを持っている。

 自動チャージといいリボ払い方式といい、そうしたシステムを考案した者の知恵というだけでは済ませられないものを持っているように私には思えてならない。現代は確かに契約社会である。互いに交わす約束を相互に理解することで成り立っている社会である。そしてその契約が守れなくなってときもまた、契約に従がわなければならない。それは言葉を変えるなら自己責任の社会である。
 ただ私は全てを自己責任とか契約であるとかの中に押し込め、それで事足れりとする現代の風潮が、人がこれまで何千年、何万年と育んできた「生きていくというそれだけの思い」を、どこかでないがしろにしているように思えてしまうのである。


                                     2014.11.7    佐々木利夫


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電子マネーの陥穽