認知症の治療薬に関する新聞投稿を最近読んだ(2014.7.13、朝日新聞、「私の視点」、「認知症治療薬『ボケ防止』の服用は危険」、神津内科クリニック院長)。

 内容はこれから紹介していくつもりだが、その中で投稿者は結論として「・・・認知症治療薬は『ボケ防止薬』ではない。保険診療のルールを無視して安易に投薬するのは危険だし、患者もそれを求めてはいけない」と書いていた。

 これを読んで、「おやっ?」と思ったのである。彼が語っている内容とその結論との乖離が、無視できないように感じたからであった。こうした結論は筆者の語る内容と矛盾し、むしろ間違っているのではないかとすら感じたのである。

 投稿者の語る「患者もそれを求めてはいけない」の患者とは、MCI(軽度認知機能障害)に属する人々のことである。つまり認知症予備軍とも言える状態にある人々のことである。そして認知症治療薬の服用が危険だとするのはこういう人たちに対する投薬を意味している。それはMCIに属する人々が「必ず認知症になるわけではない」からである。

 彼の掲げる根拠の第一は、「厚生労働省がまとめた『認知症予防・支援マニュアル』によれば、MCIの診断は不安定で、検査のたびに変化しうる」からであり、「MCIと診断された人々の41.4%が2年後には正常に復帰し、MCIとして継続したものは6.0%だった」とする報告があるからである。ただし彼の意見に、その根拠を裏付ける報告の出典が示されていないのは致命的であるように思える。

 根拠の第二は、「認知症治療薬の効果は『すでにアルツハイマー型を発病している患者の、症状の進行を遅らせること』に限定されており、MCIは対象外だ」からである。つまり、認知症治療薬の投与は認知症予備軍には認められていないということである。ただこれについても、重要な認定要素でありながらその根拠や出典を示さないままになっていることは残念でならない。ただ、薬効なり対象疾病に関するデータなので、厚生省の出版物などで確認できるものなのかも知れない。読者が自力で検索できる程度の出典のヒントでも掲げるべきではなかったろうか。を

 第三の根拠は出典を示してある。それによれば、「世界中の論文計16,938編などを分析した結果、MCIに認知症治療薬を投与しても認知機能は改善しないばかりか、『副作用や死亡率を考慮するとかえって有害との結論が出ている」(カナダ医学界ジャーナル2013年9月16日号)のだそうである。ただここでも気になるのは、論文数に「などを分析した結果」と「など」という文言をどうして加えたかということである。

 論文以外のデータも分析対象に含まれていることを意味するのなら、少なくとも「論文16938編のほか○○のデータなど・・・」とするか、もしくは「論文のほか○○のデータなど16938編・・・」と「・・・など」の根拠を例示でもいいから示すべきであった。それがないと、この引用数そのものが不明確になってしまい、強いてはその分析結果までもがあやふやに感じてしまうことが残念に思えてならない。

 そして投稿者は「これらのデータから導き出されるのは、・・・」と前置きして、「MCIに関しては、専門家による経過観察が重要であり、認知症治療薬を処方するのは慎むべきだ」と結論付けているのである。「慎むべき」という表現がいささか柔らかすぎるような気がするけれど、少なくとも私には「禁止すべき」と読み替えてもいいのではないかと思っている。

 そして投稿者はこれに続いて、現実に医師が行っている非常識な診察の実態を掲げている。それは第二の根拠でも示されていることが事実なら、認知症治療薬は少なくとも健康保険適用薬としてはMCIに属する患者にはその処方が認められていないことになる。それにもかかわらず医師が「予備軍にではなく、認知症の患者に投与した」とする診断を下して、MCIに属する患者に対してこの薬を投与しているというのである。しかもこうした投薬が無視できないほどに拡大していることは、投稿者自らが「最近は医師たちが、・・・MCIの人々に認知症治療薬を処方するケースが目立つ」としていることからも読み取ることができる。

 MCIの患者群は、いわゆる境界型であろう。予備軍という使い方がどれほど正確な意味を示しているか分らないけれど、目の前の患者に程度はともあれ何らかの認知機能障害があることは事実であろう。だから、その障害が「軽度なのか」それとも「本物の認知症なのか」の判断は、診察した医者に委ねられる場面のあることを否定するつもりはない。

 でもMCIという分類が学術的に認知されており、この分類に属する患者が国内的にも国際的にも多数存在していることは、投稿者が掲げた根拠を読むだけで、素人の私にだってよく分かる。

 ならば、なぜ投稿者はこの投稿の結論を、「投薬は危険だし、患者も投薬を求めてはいけない」などとしたところで筆を止めてしまったのだろうか。私にはこれだけの根拠を示しておきながら、投稿者は結局服用の危険を患者の自己責任に転嫁することで、このとてつもなく重大な事実をうやむやにしてしまっていると感じられて仕方がなかったのである。

 投稿者はこの投薬について、きちんと出典を示していないという問題はありながも、データを呈示しつつ「副作用や死亡率を考慮するとかえって有害」としているのである。「有害」とするなかには「死亡」も含まれているいることは明らかである。つまりこの投薬は「効果がない」どころか「有害」であり、場合によっては「死亡」につながるということである。

 どんな場合も自己責任だ、とする思いを否定はしない。でも私たちは医師に対して、どこまで自己責任の原則を背負わなければならないのだろうか。100万円持っていて、これを定期預金にするか、株を買うか、それとももっと有利だという他人の勧誘に従うかの自己責任を問われているのではない。この治療を受けるかどうか、この薬を自分が服用することを承認するかしないかの決断を求められているのである。そして一方は医師であり、片一方はなんの知識も持っていない患者である。しかも軽いかも知れないけれど認知機能に障害を受けている患者である。それを自己責任の一言で片付けてしまっていいのだろうか。

 投稿者は神経内科クリニックの院長である。その彼が各種データを引用して、こうした投薬は「有害であり死亡につながる」と判断しているのである。そんなにも重大なリスクを、冒頭に引用したようなコメントで相談した者の自己責任に転嫁してしまったのである。私には彼のコメントが、とんでもない裏切りのように思えてならなかったのである。

 そしてその裏切りの重さは「患者本人から『この薬を飲んでよいのか?』と尋ねられたので、私は『飲まないでよい』と答えた」程度の対応で免責されるような軽いものだとは、とても私には思えなかったのである。彼は死の危険さえあるようなこの薬の服用を禁止しなかったからである。
 「飲まないでよい」との対応に、彼がどの程度の意味を持たせたのかは分らない。でも私には「死ぬかも知れないので絶対飲むな」と警告するような意味で患者に対応したようにはどうしても思えないのである。もし、「飲んでも飲まなくてもどっちでもいい、自分の意思で決めてください」みたいなニュアンスの対応だったとするなら、その責任はその薬を処方した医師との共犯に匹敵するように思えたのである。もしかしたら死の危険知っているにもかかわらず、そんな言い方をしたのなら、その責任は処方した医師よりももっとたちの悪い、「主犯そのもの」に匹敵するようにさえ思えたのである。


                                     2014.7.26    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
認知症治療薬