地震・津波に関して、こんな問いかけをしているラジオかテレビの放送にぶつかった。

 「鍋を火にかけているときに地震が来ました。火を消してから逃げますか、それともすぐに避難しますか

 この質問の意図はとっさの場合、まず自分の身の安全を第一に考えるべきだということを意味している。火事の心配をしたり、水の始末などの余計なことに時間をとられて避難が遅れてしまうよりは、「まず逃げる」行動を第一に選ぶべきだと言いたいのであろう。

 東日本大震災で巨大津波が押し寄せた三陸地方は、これまでも何度も津波がきている。そうしたとき伝承として残されているこんな言葉があると聞いた。「てんでんこ」と言うのだ。伝承かどうかには異論もあるようだが、恐らくは他人の心配をする前にてんでん(それぞれ各人が、の意味であろう)が、まず自分が逃げることを第一に考えるべきだと東北人は考えたのだろう。

 学校や職場にいるときに地震が来て、我が身よりもまず自宅などに残されている家族のもとへ駆けつけようとして津波の被害に会ったという話をいくつも聞いた。まずは自分が助かろう、肉親などの心配は我が身の安全が確保された後に考えようとする思いは、恐らく人が日常的に家族と切り離せない生活を維持している現実を踏まえた上で、なおかつぎりぎりの選択と決断を意味するものだったのだろう。

 ところでもう一つ別の日に、地震についてこんな行動を促す放送を聴いたことがある。

 「高速道路を走っていて地震に遭遇しました。そんなときは急に車を止めないで、あわてずゆっくりと車を道路の左端に寄せて止め、ギァーをニュートラルに入れて鍵をつけたまま車から避難してください

 これも言っていることの意味はよく分かる。急ブレーキをかけることで追突されるかも知れないし、追突されるということは自分の身のみならず追突した方の運転者にも危険を及ぼすことになるだろうからである。また車を道路の左端に寄せることは追突を避ける上でも、また後ろに続く車両の渋滞を避ける意味でも大切なことだからである。またギァーをニュートラルにすることや鍵を差したままにすることも、地震が一段落した後に警察などの関係者が車を移動しやすくするという意味を持つからなのであろう。

 だがこうした考えは、前に述べた「てんでんこ」とはまったく異なる内容を持っていることに気づく。むしろ正反対のことを言っていると言ってもよいのではないだろうか。

 最初は「火を消すことよりもまず逃げろ」ということである。恐らく火を消さずに逃げることで火災が起きるかも知れないし、いったん火事が起きてしまえば延焼で他者の財産を侵害し、場合によっては他人の命を奪うことになるかも知れないのである。

 それにもかかわらず「まず逃げよ」との「てんでんこ」の教訓は、そうした危険よりもまず第一に自分の身を守ろうと伝えているのである。これに対し後者は、「他人に迷惑をかけないこと」をまず第一に配慮せよと言っている。

 自宅での地震と高速道路(つまり車に乗っているとき)の地震とでは、遭遇した場所という基本が違うと言いたいかも知れない。もちろんそれはそうである。地下街を歩いているとき、デパートで買い物をしているとき、海水浴をしているとき、スカイツリーの屋上で眺望を楽しんでいるとき、映画館でロードショウを見ているとき、キャンプ場で料理を作っているときやボートで湖面に出ているときなどなど、・・・地震に遭遇した場面場面によって対応すべき行動は異なるだろうとする考えは正しいと思う。

 そしてそうした多様な場面に対して、それぞれに適切な行動を選択すべきことは言うまでもない。でも人はとっさの場合に、場面に応じた適切な行動を即座に選択できるかどうかははなはだ疑問だと思うのである。だからこそ人は格言とか伝承、あるいは標語であるとかマニュアルなど利用して、様々な場面を想定し要約し、単純化やパターン化することで即座に的確な行動選択ができるようにしたのだと思う。

 災害の場合に、「まず自分を」と考えるか、それとも「他者にも配慮して」と考えるか、その選択はとても難しい。どちらも正しいからである。それぞれに理由と理屈があり、どちらが正しいとは言えないと思うからである。だからそうした時に、迷っていて決断できないよりは間違っていてもいいから決断せよ、と経験者は後世に伝えてきたのである。それが「てんでんこ」ではなかったかと思うのである。

 選択しなかったもう一方を、人は必ず後悔することになるだろう。燃え盛る火災に取り残された我が子を、両親を、妻を、その火の中にもう一度飛び込んでいったなら、もしかしたら助けられたかも知れない、そうした思いに助かったその人は生涯悔やむことになるだろう。ましてや他人からそうした選択を責められたり、避難されたりしたなら最悪である。

 そんなときに、ゆっくりと落ち着いて車を道路の左端に寄せ、ギァーをニュートラルに入れて車から下りましょうなどと思い出したら、人はどうしたらいいのだろうか。「まず自分を」との考えは、もしかしたら非難されるべきエゴの固まりなのかも知れないと思わないだろうか。我が身よりはまず他人のことを一番に考えよう、船長が沈没船から最後に避難するように、我が身を投げ打ってでも他者の命を先に守ろう、そんな考えは余りにも崇高で理想に満ち、賞賛される行為のように思える。

 それに対して「まず自分を」の考えのなんと矮小で、身勝手で、わがままであることか。場合によっては、人の風上にも置けない考え方だと批判されかねない行動ではないか。でも「てんでんこ」の伝承は、そうした批判を消化した上で出した結論なのである。自分が自分に対しても、そして他者がその人に対しても免責すること認める意味を持つのだ。

 だから私には、高速道での行動指針がどうしょうもなく薄っぺらで説得力がなく、あたかも言葉だけの正義を振りかざす底の浅いものに思えてならないのである。そしてむしろ、聞いた者のとっさの行動を混乱させてしまう有害な情報のようにさえ思えてしまうのである。


                                     2014.9.26    佐々木利夫


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思い込みと身勝手