女の10年

 「・・・結婚するってことは天国へ行くことではないので、結婚生活のなかでも女は必ず歳を取り、見えなかったものが見え、そしていろいろなことを考えるようになるんだね」(角木優子、『週末のメモリー』所収、『若いときの10年』P33)より。

 こんな一言を読んで、なんとなく最近の女性の強さが見えたような気がした。それはもしかしたら女性の強さではなく、逆に男の中性化へのいらだちの裏返しだったのかも知れない。
 「今の若いものは」論がいつの時代でも繰り返されてきたことを知らないではないけれど、男と女の役割は生物学的な構造そのものからも基本的な違いとして存在してきたのではないだろうか。

 狩猟を基本とする食料の確保を目的とした男の役割と、出産と子育てを基本とした女の存在などにすべてを押し込み、その中に人類を性的な役割として二分してしまうことが必ずしも理に叶っているわけではないことを理解できないではない。

 ただそうした違いは、性の分化そのもののなかに生物として組み込まれていたのではないだろうか。後の人の性差に関する誤りは、食料の確保という生産手段にのみ生物的な価値を付与し、出産に対してはそうした価値を認めなかったことではないだろうか。単に男は生物学的に「力が強い」というだけのことだったはずなのに、どこかで「力=偉大」であることの錯覚への道が始まった。


 泣く女

 少年が大人の女が泣いているのを見る。どうして泣くのか、何が悲しいのか、少年には決して分かりはしない。
 でも何かは分からなくても悲しいであろう事実は分かるのである。声を抑えて泣いている女の姿に悲しみの大きさを理解することはできる。

 大人は、そして特に男は「人の前では泣き顔を見せない」という不文律みたいなものがある。人前では泣かないとされている事実に反して泣いている女の姿に少年は戸惑う。そして少年は決して自身の力では解決できないであろう悲しみの深さをそこに見るのである。

 泣かない女もいるだろう。泣かないのか泣けないのか、泣いているところを見せたくないだけに過ぎないのか、そこのところも少年には分からない。だからと言って泣かない女に悲しみがないなどとは誰も、そして少年も決して思わない。

 泣く女の姿に哲学的な解釈を与えようとは思わないけれど、少年は戸惑いの中に理解できない何かを溶け込ませようとする。


 雄と雌と男と女

 人間は生物としては雄と雌だけれど、それをいつの間にか男と女として理解しようとした。有性生殖をするすべての種(動物のみならず植物やプランクトンのような生物まで含めて)に、性の違いを♂と♀とに区分して考えることとした。もちろんその中に人間も含まれることはいうまでもなかった。

 だがその違いを人にだけは男と女とに分けて理解することを、人はいつしか選ぶようになった。そしてそのとたんに、男と女の関係はややこしいものになった。それは人間には感情があるからなのだと、人は言うかも知れない。

 感情の動きや働きをどんなふうに理解するかはとても難しいけれど、だからと言ってそれが人間特有のものだとすることには無理がある。怒りや喜びや痛みや苦しみは、猿にだってあることは普通に理解できるし、犬猫や鳥などにも見られることは、恐らくペットを飼っている多くの人びとの実感するところでもあるだろうからである。そしてそれは動物園や野生の動物などの生態を伝える多くのドキュメンタリー番組からも伝わってくることだからである。

 そしてそれは同一種の中での特有な問題かも知れないけれど、「他者との感情の交流」にも及ぶことは、恐らく多くの人に理解できていることではないだろうか。もちろんそれが科学的な証明を伴うものでないとしてもである。

 最近見たテレビのTED(スーパープレゼンテーション)という番組は、フランスの動物学者ドゥ・ヴァールによる「猿にもモラルがある」ことを含む内容だった(NHKeテレ、2014.1.13)。番組は動物にも共感、慰め、協調性、公平性があることを言っていた。それでも人は「人である」ことにこだわり、その中に「男と女」を組み入れようとしている。


                                     2014.1.14    佐々木利夫


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