理解と言ったところで、他者の頭の中など人は知りようがないのだから、つまるところ理解とは理解する側の独断の意味しか持っていないのかも知れない。最近読んだ新聞投稿が、あまりにも自己中心的な理解に固まり過ぎているような気がしたものだから、つい「思い込みの独善」みたいな気持ちに思いを寄せてしまった。こんな投稿である。

 「緊急電話よりマナーが大事? 埼玉県 看護師 60歳女性
 ・・・夜勤の看護師が不在で、介護職の方からの緊急の問い合わせに対応するため、・・・当番で携帯電話を持つことになっています。・・・先日・・・電車内で着信音が鳴りました。短い応答で済みましたが、男性客から『降りて電話しろよ』とお叱りを受けました。マナーモードにしておらず不快感を与えたことは反省していますが、誰でも緊急連絡はありうるのに、何でもひとくくりに『許せない』とする空気に寒気を感じました。・・・」(2014.3.21、朝日新聞、声)


 まあ投稿者の気持ちがまるで分らないというのではない。「こんなにも大事な用件だったのだから、多少の迷惑には目をつぶってくれたっていいではないか」、そんな気持ちなのだろう。だが、投稿者が自分だけの世界に凝り固まっているように思えて、そのことにどうしょうもないやりきれなさを感じてしまった。

 もちろん、これだけ普及している携帯電話なのだから、電車内など公共的な場面での通話をどこまで規制すべきかはこれからも議論していくべきことだろう。昔ながらの「携帯の電磁波がペースメーカーなどに誤作動を起こす恐れがある」との理屈は、特に否定される根拠も示されないままいつの間にか消えてしまっている。今の理屈は、もっぱら「着信音や通話が近くの人の迷惑になる」ことが主流になり、「電源を切ってください」は優先席付近に限られるようになってきている。迷惑論を否定するわけではないが、「携帯電話が人を殺す」みたいな言い分が、さしたる根拠もないままいつの間にか雲散してしまっていることに、私はどこか納得できないものを感じている。

 それは私の身勝手な意見だからここでは言うまい。また、男性客が「降りて電話しろよ」と発言したことについても、どこまで許容していいか、どこまで受忍すべきかなどはこれからも議論していかなければならないかも知れない。車内アナウンスが繰り返し携帯電話の利用の自粛を訴えていることなどからするなら、少なくとも投稿者もマナーモードにするくらいの自覚は持つべきだったのかも知れない。

 ただ、それよりも何よりも私が感じたのは、この投稿者の自分の世界へ閉じこもった思いの強さであった。彼女の言い分は、少なくとも二つに分けられるだろう。一つは「私が緊急連絡を受ける立場にある」ことであり、もう一つは「かかってきた電話が緊急の内容を持つものであった」ことである。

 その前提を認める限り、私には彼女の言い分は正しいのではないかと思う。どんな場合が緊急かは、程度の問題であるかも知れないけれど、車内で病人が出たりドアに挟まれた乗客がいたような時に、電車を止めるような行動をとったとしても、恐らく電車の運行規定などに違反するとして止めた人間に罰則が適用されるようなことはあるまい。また、恐らく乗客もその事実を許容することだろう。

 それはなぜか。「電車を止めるだけの緊急性があったこと」が、ある程度の客観性を持って周囲の乗客や電車の運行管理者に理解できるだろうからである。だから、窓から飛ばされた帽子を取り戻すために電車を止めるような行為には、恐らく認められることはあるまい。それは「電車を止める行為」に他者がどこまで共感してくれるかにかかっているのだと思う。

 さて、ここで本件に戻ってみよう。投稿者の服装なり外観が、緊急連絡を常時受け付けているような状況を他者が理解できるだけの客観性を示していただろうか。私には例えば警察官が制服で拳銃を持って車内を捜索しているような、誰にも分る状況がそこにあったとは思えない。また、彼女の持っている携帯が非常連絡用であると誰の目にも明らかであるようなスタイルを示していたとも思えない。つまり、投稿者が非常連絡を受けるような立場にあるとの客観性はなかったと思えることである。

 また、かかってきた携帯電話の着信音が、例えば多くの人が知っているパトカーや消防自動車の音など一般人が使用を禁止されている音だったら、話は違ってくるだろう。だが、私は寡聞にしてして、そうした公共的な着信音が存在することを知らないし、その音を聞いたこともない。

 だとするなら、投稿者の携帯電話の着信音を聞き、その会話している状況を見た電車内の男性客の目には、電話を受けた者が介護の仕事をしていて、いつなんどき緊急の電話がかかってくる立場にあるとの理解ができたとは思えない。ましてや、会話の内容が「緊急な要件である」ことなど、まったく理解できなかったはずである。

 もちろん投稿者にはこうした事実は分かっている。自分のことなのだから、介護職にあること、緊急の連絡を受ける立場にあること、そのために専用の携帯を持ち歩いていること、そしてかかってきた電話が緊急の用件であったことなど、は自明である。何の迷いもない明らかな事実であったことだろう。

 でもそうした事実は、少なくとも「投稿者が携帯電話を受けたのは電車内である」という状況に限定する限り、自分だけの理解でしかない。投稿者がそうした特別の環境にあるとの事実は、投稿者だけの理解に止まるのであって他者にはまったく及ばないということである。

 この投稿はそれだけのことである。とりたてて取り上げるほどのものでないような気がしないではない。でも私には、この投稿者が普段は普通の人で、恐らく介護職として優しい人なのではないかと思い、それだけにこうした自分の世界に閉じこもることが世間に広がってきているように思い、そのことがどうにも気になってしまったのである。

 パソコンやスマホによって、ネットワークへのリンクがとても簡単になり広がって行った。メール交換、ライン、フェイスブックなどと言った手段での交流が容易にできるようになり、それを人は「他人とつながっている」と理解するようになってきた。中には携帯中毒と呼ばれるほどにものめり込んで、バーチャルな世界に自分を埋没させるまでになっている。そうした世界に漂うと、「私のことは誰もが知っていることが当たり前」との感覚になってしまうのだろうか。

 その人の貧しさや苦しさや嘆き、なんなら繰り返される就活の失敗や仕事への不満、異性に相手にされなかったことなども、ネットを通じた世界の中では誰もが知っていて共感されていることになってしまうのだろうか。
 「私の不満は多くの人が知っているはずだ」、「それなのに道ですれ違う人や電車の中の人たちは、私に無関心で通り過ぎていく」、「そんなことは許せない」・・・。現代はそんな構図の成立が許されてしまう時代になってしまったのだろうか。

 私は投稿した女性の思いの中に、携帯電話の会話を批判した男に対する当然「私の職業や電話の緊急性を知っているはずだ」との思い込みが抜けがたく潜んでいるように思えてならない。そしてそうした不満への思い込みが彼女に限らず、多くの人の中で爆発の機会をうかがっているように思えて恐いのである。

 無差別殺傷事件や、特に理由のない犯罪が最近多くなってきている。それをマスコミ論調は「動機が不明、理由なき殺人」みたいなことにしているけれど、私には決して「動機や理由がない」のではなく、単に「誰も私を分ってくれない」、「私がこうなったのは周りが悪いからだ」みたいな思い込みの増幅が原因になっているように思えてならないからある。


                                     2014.4.3    佐々木利夫


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