正しいことは正しいのだし、悪いことは悪い、そんなことは分っている。タイトルに掲げた正義と収賄だって、並べることや比較することなどできないくらいこの区別は自明である。いずれが正しいかなんてことは、問いかける自体に躊躇を感じるほどである。そんなことは分っている。分っているのにそれでもなお私は、この二つを並べることにこだわっている。

 さて話題を変えよう。色々な場面で人は死ぬ。老衰や病気など、黙っていても人は死ぬし、人が死ぬことは至極当たり前で、「そう言うもんだ」と誰もが理解している常識である。

 でも「人の死」にも素直に理解できるものから、理不尽としか言いようがないと感じるものまである。例えば戦争や飢餓や多くの事故などによる不意の死は理不尽の部類に入るだろうし、更には例えば病気による死だって、金がなくて必要な手当てを受けられなかったり、過疎地に住んでいるため先進医療を受けられなかった場合なども同様に理不尽さを感じるであろう。

 人の死だけを判断の基準にするのは誤りかも知れないが、一つの例としてこれを善悪の境界を画するものとして考えてみることも、あながち変ではないのではないだろうか。一人の人にとって、命は一つである。たとえ子孫を残すという形で自らの死と引き換えに多くの生物が永遠の命を残そうとした進化の形態を認めるとしても、私の命が有限な一つであることを否定はできないだろう。そして私たちはそうした命を何よりも貴重なものとして、信仰とも言うべき次元にまで昇華させてきた。

 そして私はこのエッセイのタイトルをもう一度ここに掲げよう。そしてこの二つのどちらが多くの人を殺しただろうかと考える。原人や猿人など、どの時点から人として認識していいのか私には分らないけれど、正義が殺した人の数は過去に遡るなら恐らく数百万を超え数千万、場合によっては数億人にも及ぶのではないだろうか。そして片方において、地位とか権力が収賄によって世界を曲げていくことは誰しもが理解していることだろうが、それでも少なくとも収賄が人を殺したことなどないのではないだろうか。

 正義による殺人の最たるものは恐らく暴力であり、そしてそれに続く戦争であろう。いつもながら私には、戦争や内乱やテロ、そして部族抗争や縄張り争いなどの呼び名の区別をきちんとは理解できていない。ただ言えることは、どんな争いも、常に対立する集団にとっては自らが正義であり対抗する他者が悪であったと言うことである。

 「暴力に正義はない」とは識者からも日常的にもよく聞く話である。でも、国会でも「自衛のための戦力の保持」は、主権国家として当然のことであると主張され、更には「同盟国の自衛」にまでその戦力行使の範囲が拡大されるという「集団的自衛権」が憲法解釈として許されるとする方向へ動いている現代である。国連も軍隊を持ち、NATO(北大西洋条約機構)もまた「現実的な力の行使」を認めている。誤解を恐れずに言うなら、世界中が戦力と言う名の暴力を正義として認めているのである。

 そうなのである。どんなに暴力や力の行使を悪だと言い募っても、その力に一たび「正義」の装いをまとわせてしまうなら、それは一転して「力」そのものが正義へと変身してしまうのである。そして私たちもまた世界の人々と同じようにその力を正義だとして許容する。

 ならぱ、正義がかくも多くの人を殺したとしても、それでもその力やその行使を正義と呼んでいいのだろうか。つまりここにきて、人を殺すことが正義の判断基準としてどこまで妥当なのかが、改めて問いなおされることになるのである。私たちが無意識に理解していた「人の命」による正義の判断基準に疑問符がつけられたのである。

 もちろん正義が「人の命」だけの基準によるものでないことくらい知っている。ここに掲げた収賄だって、正義の範疇に含める人は皆無だろうからである。盗みや裏切りを正義に含める人も恐らくいないだろう。でも、私たちが一番貴重なものとして抱いている「命」を基準とすることに疑問符がつくのだとしたら、果たして私たちは正義の拠り所をどこに求めたらいいのだろうか。

 一つの答えがないではない。「命」を基準にしてもいいだろう。ただし、その命は「私個人の命から同心円的に取り巻く一定の範囲」という考えである。「私の命」を中心において、その同心円上に家族の命、親戚縁者の命、知人友人の命、同じ地域の人たちの命、日本人の命などなどを広げていき、ある限度までを正義と理解する考えである。

 つまりはエゴである。私個人だけの限定もももちろんエゴだけれど、日本人、東洋人と輪を広げたところでエゴであることに変わりはない。エゴとは身勝手の別称である。私だけが良ければ、私たちだけが無事ならば他はどうなっても構わないことと同義である。イラクでどんなに人が死のうと、アメリカの9.11テロで何人が犠牲になろうと、遠くいる私たちが毎日ビールを飲んでお笑いテレビ番組に興じていられるなら、深く考えずに暴力に無関心になることと同じ意味である。

 正義はいつの場合もどこか冷たく、批判を許さないままに君臨してしまう。そしていつでも正義は多くの場合戦いの渦中にある。複数の集団のそれぞれにとっての正義、ぶつかり合う正義、勝ち残り生き残る正義・・・、そう考えてくると、対立の中に正義は存在していると思っていいのかも知れない。でも仮にそうだとするなら、敗れた正義は正義でなかったことになるのだろうか。そうした時、正義と正義に挟まれたまま亡くなってしまった多くの命は、一体どこへ行ってしまうのだろうか。


                                     2014.2.21    佐々木利夫


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