JR北海道が批判の嵐にもまれている。きっかけは函館本線で発生した貨物列車の脱線事故であった。レールの幅が一定の基準を超えた場合は適正値へ補正しなければならないのに、それを放置したままにしていたことが原因であった。しかもそうした放置は脱線のあった地域のみでなく、全道267ヵ所にもわたってレール幅の異常値を示した検査データを、会社ぐるみで適正値の範囲内であるかのように隠蔽し国の運輸委員会に嘘の報告をしていたことが発覚したのである。このほか個人の事件ではあるが寝台特急に備え付けられているATSと呼ばれる自動列車停止装置を意図的に破壊した事件が発覚するなど、不祥事が相次いでいる。

 ここ数年、JR北海道はトンネルでの火災事故などの不祥事が続いており、今回の事件も含めて国の運輸委員会は事業改善命令や監督命令などの処分を下した。処分としては全国的に例がなく異例なことだそうである。

 そうした一連の経過に対して、JR北海道の社長は運輸委員会の決定に異議を唱えることなく受け入れ、事件についての謝罪と今後の対策についての記者会見をした。「謝罪と対策」と言っても、不祥事に対する謝罪会見というのは、どの企業も似たようなパタンーが続いていて、どうにも本当の心というのが伝わってこない。それは受け手である私たちの心に、「公開される謝罪」と言うものに対する先入観や、事件に対する冷ややかさがあるからなのだろうか。それとも「言葉」や「態度」と言った表現方法そのものに、人の真意を伝えるには不十分な機能しか持ち合わせていないからなのだろうか。その辺がどうにもへそ曲がりの私にはすっきりとしないものがある。

 私の身勝手な思いだと言われればそれまでのことだろうが、JRの示した対策にも私はどこか納得できないものを感じている。それはJRが、レール検査を徹底する、安全基準を厳格化する、枕木を木材から鉄筋コンクリートなど耐久性の強いものへと変えていく、など「違反しにくいシステム」なり、「異状が発生しないような堅牢な資材への変更」などの採用することだけに集約されていたように思えたからである。

 もちろんそうしたシステムへの移行が望ましいことはいうまでもない。枕木の上に乗せたレールの幅に、一定の広がりが発生すると列車の脱線という事故が起こりやすくなることは分る。だから定期的にそのレール幅を検査して、その幅を超えた場合には直ちに標準値へと補正するための工事をしなければならないこともよく分かる。そして今回の事故はその検査データを、あたかも適正な範囲内にあると偽装したものである。だから脱線事故は起こるべくして起きたと言っていいであろう。

 そしてこの偽装が「謝罪と今後の対策」に関する社長の記者会見へと続く。社長の語った今後の対策が無意味だとは思わない。枕木を木製からコンクリート製に変えることで、その上に乗っかっているレールの幅が多くの列車の通過によって適正値から外れるような現象が少なくなるだろうこともすぐに分る。また、検査データを偽装するような事例は、例えば監督者が二重にデータをチェックすることで避けられる場合が多くなるだろうことも理解できないではない。

 でも私には、「違反ができないシステム」、「違反のしにくいシステム」、「そもそも異常値が発生しにくいような設備」などの導入よりも、もっと先に検証すべき事項があるのではないかと思ったのである。それは、検査に直接タッチする職員のみに限らず、公共交通機関の使命をきちんと理解したJR職員の育成こそが最も望まれることなのではないかと思ったからである。

 「バレなければいい」、は事実である。法律や規則はどんな場合だって、違反した事実が見つかって起訴され裁判で確定してはじめて犯罪とされるよう定められているからである。その違反なり犯罪が仮に誰かの責任であったとしても、見つからなければその責任をとらされることのないことは、法治国家たる日本の基本だからである。

 だからそうした基本に順ずる形で内規的なシステムを作り、そうした内規に違反した場合に例えば昇給停止や解雇などの戒告処分をすることで適正な組織を維持しようとすることが間違っているとは思わない。もちろんそうした手法に、刑事罰の意味について繰り返し述べられているような「報復かそれとも矯正か」と言った議論はあるにしても、一つの効果を持つことを否定するつもりはない。

 そうした戒告を背景としたシステムは、それはそれでいいと思うのである。ただそれだけに終始しているかに見える社長の会見には、どうしても違和感を感じてしまったのである。その会見の中(と言うかJRの体質の中にと言うべきかも知れない)に、人(従業員)の心に対する信頼というか納得を求める意識が欠如しているように思えたからである。

 私はシステムの改変はいいことだし、ミスの起きないように作業環境を改善していくこともいいことだと思う。だがそれだけで事足れりとしてしまうのは、間違いではないだろうか。「違反が起きないようなシステムや環境を作る」ことはもちろん大切なことだとは思う。たとえば今問題にしているJRでの事故の原因にしても、そもそもの原因は気温の変化や列車の運行に伴う振動や荷重によってレールが磨耗したり安全なレール幅が基準を外れてしまうことにある。だから言うならそれは自然現象である。だが今回の問題は、その自然現象によって起きるであろう発生を、事前の点検で発見しようとすることに関連して起きたのである。つまり自然現象を人為的に阻止するというシステムの過程で起きたのである。

 避けられない自然現象や、想定外の事故だって起きることがあるだろう。その判断基準である「本当に避けられなかったのか」、「想定が甘かったのではないか」の検証はもちろん必要であろう。だが今回の事故はそうしたことが問題とされたのではない。避けられることが事前に分かっていたし、放置すれば事故が起きることは想定されていたからである。にもかかわらずその点検に関して、検査する作業員が嘘をついたのである。

 だから私は、そうしたシステムの改変以前に「間違いが起きたときに、嘘をつかない」という環境作りこそがまず企業として最初に望まれるのではないだろうかと思ったのである。「事故を起こさないようにシステムを改変します。そして同時にミスを起こさないような職員への教育の徹底や、ミスを起こした場合でも決して嘘の報告をしないような環境の醸成に努めます」ことが、何にも増して企業体質に望まれることだと思うのである。

 どんなに素晴らしいシステムを構築したところで、職員の意識の中に「ばれない内は隠しておこう」との気持ちがある限り、こうした違反のなくなることはないだろう。必要なのは職場や与えられた仕事に対する一種の使命感であり、JRの事件に関して言うなら「乗客の安全や命を守ること」が企業としての体質にまで昇華されていることだと思うからである。


                                     2014.2.11    佐々木利夫


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