色々なサービスや商品の体験コーナーが盛んである。物やサービスの大量生産・大量消費が幸せだったと言われた時代を終え、これからは満足や成熟への道を歩むべきだと言われても、一度味わったバブルの経済神話はなかなか消えようとしないらしい。物価上昇やGNPの多寡を一国の充実度の指標として捉えようとする限り、もっと作れ、もっと買え、もっと遊べと、経済界も政府も旗を振り続けるのは当分止まないのかも知れない。

 体験コーナーはそうした経済分野のみに限るものではない。東日本大震災や豪雨被害などに関連しても、地震・豪雨・強風などなどの体験コーナーが各地に作られている。どうもゲーム感覚でしかなく、「○○博物館、××記念館へ行って、震度6の揺れや秒速30メートルの強風を体験しよう」を売り物にして、入館料稼ぎに重点が置かれているようなものが目立つ。そして体験した入館者は「あー、こわかった」との感想は述べるけれど、それがどこまで実生活に反映されるのかは疑問である。

 それはそれでいいかも知れない。ただ最近は、障害者体験コーナーと称するものも多くあり、例えば「目の見えない人の体験として、目隠して歩く」だとか、「老人の体験として思い荷物を背負ったり関節を曲げにくくしたサポーターなどを装着して歩かせる」などのコーナーも出てきている。しかし、そんな1〜2回の体験をしたところで、どこまで「目の見えない人」の気持ちが理解できるかはどうしても疑問が残る。

 まあ主催者が、そうした体験を通じて障害者の生活上の様々な不便さや苦労を、障害を持たない人にも理解してもらおうと思ってのことだろうから、第三者が軽々しく批判すべきではないかも知れない。たとえそれが主催者の身勝手な思いあがりだとしても、である。

 だが先日テレビで放映された体験コーナーには、思わず唖然としてしまった。なんとそれは「棺おけに入る体験」だったからである。対象者は、私の見た限りでは高齢者が多かったような気がする。電動ベッドや車椅子の体験ではない、棺おけである。

 これは他人が体験するであろうことを、我が身で擬似的に体験しようとするものではないだろう。棺おけと言うのは、死者を埋葬するためのもの、ただそれだけを目的とするものである。そのまま土葬するか、はたまた棺おけごと火葬に付するかはそれぞれの国によって異なるだろうが、少なくとも棺おけに入っているのは死者である。しかも人は例外なく死者になってから棺おけに入るのであって、生きたまま棺おけの中で死を迎えるような風習が世の中にあるとの話は聞いたことがない。また、妻や夫が配偶者の死に際して、生きたまま後追い死を選ぶような習慣が現在でも残っているかどうか、私はまるで知らない。歴史的には主君や尊敬する師などの死を悼んで自らの死を選ぶケースがあったことを知らないではないけれど、それとても生きたまま棺おけに入って埋葬されるような例を私は知らない。

 またミステリーやサイコものの中には、生きたまま葬られるというストーリーのあることを知らないではないけれど、それは物語の中の話であって「体験コーナー」の意味とはまるで異質なものであろう。だから棺おけの中の人を過失で死者と誤認したというならまだしも、生きていることを知りつつ臨終状態のまま納棺されるなどということは決してないと思うのである。つまり、人はどんな場合も「棺おけに入っている自分」というものを生きた状態で経験することなど決してないのである。

 何人ものお年寄りが棺おけに入り、起き上がる様子をこの体験コーナーは放映していた。それを見て私は、この「棺おけ体験」は何を意味しているのだろうかと、違和感を越えて「何たる馬鹿げたことだろうか」とさえ思ってしまったのである。

 人はそれぞれだから、ダンボールで作った棺おけで埋葬されたって構わないと思う人もいるだろうし、高級ヒノキ材で作られ金ぴかの飾り具をつけた棺に入りたいと思う人がいたってちっとも構わない。また自分の骨がプラスチックの骨壷に納められるよりは色彩豊かな清水焼の壷に入りたいと思った人がいたって、それはその人の自由だと思う。白い帷子で埋葬されたいと思ったり、エルメスのコートに包まれたまま荼毘に付されたいと願ったところで、火葬場の焼骨の規則や遺族の思惑はともあれ、その選択を批判しようとは思わない。でも生者があらかじめ棺の寝心地を確かめておく必要などまるでないと思うのである。

 体験とは、やがて訪れるかも知れない我が身の状態を、あらかじめ経験しておくことに意味があるのだと思う。また自分が経験しないかも知れない状況(例えば盲目、失語、歩行困難などなど)を知ることで、他人のそうした状況を推し量って、その状況を共有する意思を自らに経験させる場合もあるだろう。でもそうした共有の感覚といえども、その共有は生きている他者への共有だと思うのである。そしてこの「棺に入り込む体験」には、そうした意味はまるでないと思うのである。だから私は、こうした体験コーナーを企画した者の気持ちも、そしてそれに嬉々として参加しているかのように見えるご老体の面々の気持ちも、まるで理解できないでいるのである。

 つまり私は、生前に棺の種類なりデザインなりを選択することと、棺に入って寝心地を確かめるかのような体験コーナーとは、まるで別物だと思っているのである。


                                     2014.1.4    佐々木利夫


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