2014.1.23の朝日新聞の第一面トップの見出しは、「歴史問題、中韓との和解促す」だった。内容はケネデイ駐日米大使による朝日新聞のインタビューを掲載したものである。この中で大使は日本と領土問題、具体的には中国とは尖閣諸島、韓国とは竹島をめぐるぎくしゃくについて、「すべての国々の国民は、 歴史を超えて平和な未来を作ろうとする指導者を励まし、支持すべきだ」と述べたという。つまりは中韓に存在する緊張関係を和解によって解決するよう促したということである。

 そのことに異論があるわけではない。ただ、こうした意見が、どうして朝日新聞の一面トップに掲げられるような意味があるのだろうかと、いつものへそ曲がりが頭をもたげて来たのである。言っていることに間違いはない。「力で解決するよりは話し合いで解決せよ」は、どんな場合にも否定できない絶対的正義であると私は思うし、私だけでなく世の中の多くの人の共感を得ることだろう。

 でも、「絶対に正しいこと」が仮にあったとしても、それが「どんな場合にも正しい」ものとして宣言し、実行しなければならないのだろうか。もちろん「何度でも繰り返すべきだ。それが正義の使命だ」とする思いを否定しようとは思わない。無駄だと諦めることが、その正義からの後退だとの思いも分らないではない。

 それでもなお私は、「和解を促す」という駐日大使の言葉が、どこか空疎に思えてならなかった。そして全国紙のトップ一面に大々的に掲げられるようなニュースとして取り上げられることに、抵抗感を抱いてしまったのである。

 こんなことくらい、誰でも言える内容だったからである。わたしにだって言える。恐らく世の誰でも、もしかしたら小学校の高学年以上なら子供にだって言えるような内容である。そんなことくらい、誰でも知っているのである。

 もちろん多くの人の中には、「言っても分らんやつは殴っちまえ」と思う者がいるかも知れない。でも、大多数の人びとが、「力よりは話し合いを」と思っているはずである。そして、それがいかに実現が困難な命題であるかも、同時に理解しているはずである。

 そのことを実証的に言うことはできないけれど、恐らく人類は数千年それ以上も前からこのことを言い続けてきたのではないだろうか。力に抵抗できずに従わざるを得なかった多くの人びとは、その力を否定し言葉による解決を求めてきたはずである。

 それでもなお、私たちはその実現が困難であることをこの目で見てきた。力が現実を支配する世の中を味わってきた。そして私たち自身が、それを許容してきた。それを選挙と呼ぼうが、法律と呼ぼうが同じことである。私たちが警察を持ち、軍隊持ち、病人を強制収用し隔離して拘束することなども、結局は「力による支配」を私たちは認めたことになるのである。

 つい先日、東大紛争の記録をテレビで見た(2014.1.30、NHK午後7時30分、クローズアップ現代)。1968年〜1969年にかけて起きた東大生による大学占拠を含めた事件である。テレビは大学自治の崩壊を伝えていた。つまりは学生との話し合いの解決ができずに、学外からの警察機動隊の導入という力による解決でしか結末をつけられなかった事実である。

 「話せば分る」、と言ったのは五一五事件の犬養首相だっただろう。その言葉は相手の「問答無用、撃て」の一言で否定され、彼は暗殺された。

 こんな例は歴史だけでなく、実生活の場においても世の中には溢れている。つまり、話し合いで解決がつかない例があまりにも多いのである。多くの場合は犯罪がらみかも知れないが、パワハラやセクハラ、イジメなどに限らず場合によっては会社や上司からの指示、命令なども「力による支配」に含まれるかも知れない。

 だからと言って、世の中を実効支配しているのは力なのだから話し合いは不要であると言いたいのではない。話し合いによる解決は、どんな場合も正義であり、私たちが守っていかなければならない理想であることは言うまでもないと思っている。

 それでもなお私は、責任ある立場の人が、あたかもその責任を自ら放棄したかのように実現不可能な呪文をもっともらしく唱える姿に、どこか無責任さを感じるのである。なんの神通力もないことを承知の上で、気恥ずかしさもなく堂々と唱える姿に、空々しささえ感じてしまうのである。

 この記事の載った1月24日の朝日新聞は、その11面だけでこんな報道をしていた。
 @ 今日直接協議 深い溝 和解 難航必至(シリア内戦)
 A 南スーダン停戦合意か
 B ウクライナ衝突激化
 C 非常事態宣言 タイ
 D 防空識別圏侵入 中国空軍が警告

 戦争か内戦か、はたまたテロリストによる氾濫か、その違いを私はきちんと理解できていないのだが、それぞれに正義を主張する暴力が世界中に広まっている。恐らく表面に現れていないところで話し合いは行われているのかも知れない。そしてそれがどんな形にしろ、弱い人びとのなんらかの助けになっているのかも知れない。だからそんなことも知らないで私がこんなことを言うのは身勝手な解釈なのかも知れない。でも私たちの目に映る多くの事柄は、力が世界を支配している事実を示している。

 だからこそ「話し合いが必要」なのかも知れない。でも力が事実を支配する例を余りにもたくさん私たちは見すぎてきた。国連でさえ軍隊を必要としていることや世界に蔓延する紛争がそのことを示唆している。

 だから私はこのケネディ米駐日大使の「話せば分る」みたいな論調に、いらだちを感じるのである。彼女がこの地位に居るのは、単なるオバマ大統領の広告塔になっているからだけではないはずである。私にはそうした能力はないけれど、彼女に力以外に紛争を解決できる知恵や実力があると認められたからなのではないだろうか。これだけの人類の歴史が、力による解決以外を見つけられないでいるのだから、いかに大使といえど彼女にそうした神通力はないのかも知れない。

 だとするなら、もっと謙虚な言い方があるのではないだろうか。「私にはこんな言い方をするしか、能力がありません」、「私には残念ながら『話し合いで解決してください』と願うしかありません」、「私の知恵では、これ以上の提言をすることはできません」・・・。

 もし、そうした私の思いが違っているのなら、「和解で解決できる具体的な提案」を彼女は日本政府に提示すべきである。それがどんなに小さなことであったとしても、「話し合いで解決を・・・」のような、言葉だけの抽象的でなんの力も持っていない発言よりは、どんなにか頼りになることだろう。


                                     2014.1.26    佐々木利夫


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中韓との和解