「心配りの連係プレー 夫の診療所で受付を手伝っています。先日『お宅の診察券を持ったおばあさんが道に迷っています』という電話がありました。・・・通りがかった人が電話してくれたのです。(タクシーの)運転手さんがつれてきてくれました。代金は電話の方から受け取ったといいます。・・・電話の方と運転手さんの連係プレーで、おばあさんは無事たどり着けました。・・・帰りはわたしが送っていくつもりでしたが、同じ地域に住む方が診察に来てい(て)・・・快く引き受けてくれました。3人の優しさの輪が広がり、私自身が心温まる一日でした」(朝日新聞、2014.10.10、ひととき、東京都主婦82歳)

 小さいけれど心温まる美談である。一人のおばあさんをめぐる、電話してハイヤーに乗せてくれた人、診療所まで運んでくれた運転手、そして自宅まで送り届けることを引き受けてくれた人、そしてこの投書を書いた主婦の四人がつむぎ上げた小さな小さな善意の物語である。

 それを「三人による心配りの連係プレー」と呼んだところで、何一つ批判することなどないだろう。そのことは分る。分りすぎるほど分る。それでもなお私は、この物語に引っかかるものを感じてしまった。善意の物語としてこのまま終結させてしまうことに、どこか違和感が残ってしまったのである。

 それは登場人物3人+投稿者1人の行動そのものに不審や悪意を感じたからではない。登場人物の心の中に、打算だとか見得や賞賛への期待などを感じたわけでもない。ましてや「このおばあちゃん」の存在が気になったのでもない。

 ただこの物語がここで終わってしまったことに、どことないやり切れなさを感じてしまったのである。確かに病院へ行こうとして自宅を出たおばあちゃんが道に迷い、親切な3人+1人の連係によって、無事に診察を終えて自宅へ戻ることができた。そのことは嬉しいことであり、なんの不服もない。

 私はこのおばあちゃんが、にわかの腹痛であるとか足をくじくなどして、どうしても行かなければならない病院へ行けなくなったという場面でのできごとだったら、こんな違和感を覚えることなどなかっただろうと思う。そんな状況のもとで醸しだされた善意の連係プレーであったなら、投稿者の語る「心配りの物語」に素直に喜べただろうと思うのである。

 だがこのおばあちゃんは、「道に迷って困っていた」のである。第一の登場人物である診療所へ電話をかけてくれた人物が、このおばあちゃんが道に迷っていると知ってまず最初に本人に尋ねたであろうことは、「どこから来たのか」、つまり住んでいるところの住所や電話番号などであろう。一人暮らしの可能性もないとはいえないが、まずは家族への連絡を最初に考えただろうと思うのである。そしてあれこれ質問しても要領を得なく、結局「どこへ行くのか」を便りにおばあちゃんのハンドバッグなり財布なりから「診察券」を見つけ出したのだと思う。

 「おばあちゃんが道に迷っていた」というだけの記述から断定するのは間違いかもしれないけれど、常識的に考えてこのおばあちゃんには認知症の可能性があるのではないかと考えられるのである。確かにこうした善意の連係プレーによって、このおばあちゃんの外出の目的は完結した。めでたし、めでたしである。

 だがこの完結は「今日の目的」、「目の前の目的」の完結でしかない。おばあちゃんの生活はこの目的の完結だけで終わるものではない。確かに診療所へ行こうと思って自宅を出、診察を受けて無事戻ることができた。それは事実である。たとえそれが善意の人たちによる連係プレーという協力によるものだとしてもである。でもおばあちゃんの人生にとってみれば、この目的が達成すれば全て解決するというものではない。

 診察を受けようと一人で外出したのだから、おばあちゃんの目的は「一人で診療所へ行く」ことだったのだろう。同居の家族がいるのかどうか分からないけれど、この投稿を読む限り「診察を受けて自宅へ戻る」という状況は、自力で行う日常的な行為としておばあちゃんも認識し、そして連係した数人も(恐らくは診察した医者も含めて)そのことを承認しているようだから、おばあちゃんが異常な「徘徊状態」にあったようには思えない。

 でも私にはこのおばあちゃんの認知機能に、少なくとも今日に関しては問題があるように思えてならない。だからと言って、この連係プレー4人組に何らかの責任があるとは少しも思わない。またこの連係以上の何らかの対応をすべきだったとも思わない。逆にこの連係をほほえましい善意として納得もしている。

 それでもなお私は、こうした善意がここで止まってしまっていることに、どこか違和感が残るのである。投稿した診療所の受付の主婦の善意もまた、それなり理解はできる。だからそうしなかったことを責めるつもりはないけれど、投稿者は診療所という社会的に公共の立場に従事しているのだから、もう少し踏み込んだ対応、例えば市の相談窓口への引継ぎであるとか家族にこうした事実を知らせるなどの手段をとることができなかったのだろうかと思うのである。

 恐らく私でもこの連係チーム以上の対応はしなかっただろうと思う。もしかしたらこれ以下の対応で済ませてしまったかもしれない。認知症の疑いをたとえ親族や市町村の窓口にしろ、無関係な第三者が恩着せがましく通報するなどの行為は、余計なおせっかいのような気のしないでもない。

 だとするなら人が他者に与える優しさとは、もしかしたらまさに「余計なお世話」であり、「お節介をやくな」と批判されるものなのかも知れない。だが同時に、優しさというのはもしかしたら「余計なお世話」の中にこそ存在しているのではないだろうかとも思えてくる。だからこそ人はそうした中途半端の中に、迷い、混乱し、戸惑い、躊躇しながらうごめいていくしかないのかもしれない。優しさを自分のものとするためにはなお更に・・・。


                                     2014.10.15    佐々木利夫


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優しさの限界
人が他者に与える優しさなんてのは、せいぜいがこんなものなのかもしれない。最近の新聞投稿を読んで、人ができる優しさというのはこの程度のものでしかなく、しかもこの程度の優しさすら私自身には存在していないのかもしれないと感じて、逆に哀しくなったのであった。