毎週放映されるNHKのテレビ番組の中に「ドクターG」というのがある。3つのグループが参加して意見を述べあう、医療をテーマとした番組である。一つ目のグループは三人の研修医、二つ目のグループは一人ではあるけれど番組から指導医としての役目を与えられている高名な専門医師、そして三つ目のグループは芸能人が多いけれど素人的な医療知識しかないと思われる、いわゆる視聴者代表みたいな役割を持たせられている数人である。

 番組は足が痛い、胸が苦しい、どうも体調がすっきりしないなどの症状を訴えて、医師の診察を受けに病院を訪れたという患者の、診察再現ドラマから始まる。そして番組の目的は、回答班としての役割を任せられた研修医グループが、いかにして患者の愁訴や症状などから正確な診断(病名)にたどりつくことができるかを競うものである。

 毎週必ず見ているとは言えないのだが、番組の構成や進行が比較的理論的であること、内容が医学という科学の分野であること、病名を追いかけるという内容が健康を気にしている私の日常ともそれなり符合することなどが私の嗜好に近いこともあって、見る機会が多い。

 番組は一話完結で、最終回答に向けて概ね三回に分けた患者の診察経過や日常生活を再現したビデオの放映があり、その都度教師役の専門医よるアドバイス、それに呼応したナレーターの解説などで進行していく。そして三度に分けて研修医から病名の診断や一〜二回目の回答に対する補正などの意見発表があり、その合間に素人集団による気ままなトークなどが積み重なっていく。

 そして三人の研修医の意見が最終的に一つの病名へと収斂していくこと、そして収斂していく過程に満足げな専門医の顔つき、そうした経過に納得し感心する素人集団の姿などを映しながら番組は終了する。もちろん、最初はばらばらだった研修医による病名の診断が、一つにまとまった時点で正解であることはいうまでもない。番組に出演した専門医は自らの指導結果に満足したことだろうし、正解した研修医はもちろん、彼らを番組に派遣した雇用主たる有名病院もその経過に満足することだろう。

 ならばどこにも文句はないはずである。「三方一両得」であり、「八方丸く収まる」であり、参加者のみならず視聴者も含めて「すべて良し」なのだから、あえて異論を唱える必要などないはずである。それでもなお、へそ曲がりの私には、どうしてもこの番組の経過に違和感が残るのである。すっきりしないのである。どこか誤魔化されているような気がしてならないのである。

 それは、正解に至った研修医の実力を素直に喜べないからである。確かに聞いたことのないような病名が研修医の口から次々と飛び出し、まだ実務経験がそれほど多くないにもかかわらず豊富な医学の知識を持っていることが会話の端々から窺えることにも感心する。また途中の診断と矛盾する症状などを専門医から指摘され、それに答えている内容も的確なように思える。それでも最終診断が一つの答にまとまっていくことに、どうにも違和感が残って仕方がないのである。

 なぜなら正確な最終診断が、私にでも的中できてしまうからである。もちろん私の医学に対する知識は医師から比べるなら無知と言ってもいいくらい貧弱である。体調が悪いと訴える人に向かって、せいぜい「医者にちゃんと診てもらえよ」くらいの助言しかできないほどにも乏しい。

 ただそんな私にでも、この番組を見ていると正答が分ってしまうのである。素人の私にでも研修医を悩ませている難しい病気の正しい診断の判定に、行き着くことができるのである。自信をもって正しい病名を宣言することができるのである。しかも、何度かこの番組を見ているが、そのたびに正解に到達することができるのである。専門医の指導の下、優秀と思われる研修医の知力を傾けた診断結果と寸分違わない診察が私にもできるのである。少なくとも研修医に並ぶような名医の実力を私も持っているのである。

 それはなぜか。私にはそうした正解にいたる道筋が、あらかじめ番組の中にストーリーとして組み込まれているように思えてならないからである。もちろん、正しい診断名が参加者の回答よりも先に放映されることはない。番組はあくまでも回答役の研修医が再現ビデオの情報や専門医のアドバイスを手がかりに、持てる知識をフル動員して正解に到達するという筋書きがきちんと守られている。それにもかかわらず、医療に無知な私でも、番組を見ているだけで(何ならビール片手に無責任に見ていたって構わない)正解が分ってしまうのである。
 そして私は思うのである。それは単に私が分ったというだけに止まらず、恐らく番組の参加者である素人集団の全員、更にはこの番組を見ている私以外の視聴者全員にも分ったのではないだろうか・・・と。

 繰り返すけれどそう思ったのは、少なくとも正答にいたる道筋の誘導が、あらかじめ番組の中にストーリーとして組み込まれているのではないかと思えたからである。研修医は間違いの許される回答を3回発表することができる。つまり視聴者にしてみると最大9つの診断名に触れることができるのである。そして4回目に全員一致の正答へと到達するのである。だから研修医各人の3回までの回答は、もしかしたら番組の演出として誤診を誘導すべく、患者情報を小出しにしていることによるものなのかも知れない。

 とは言っても研修医といえども国家資格を持つ医師であり、回答はその知識に基づく診断である。彼らは恐らく全国の大病院の中から、この番組に出演するために選出されたエリート研修医のはずである。私は誤診が許されないと言っているのではない。むしろ現実の医療では誤診を繰り返す過程の中から正しい診断への道筋を見つけ出すことが診察の過程ではないかとすら思っている。特にこの番組は一種のクイズ番組になっているのだから、間違った診察名の中から正答に到達するような演出を狙ったところで、一概に非難することはできないだろう。

 ただ気になるのは、誤診を糺したりまたは研修医が間違った方向へ進みそうな場面で示される、指導教官の役割を持たされた専門医の態度である。例えば正解がAという診断だったとしても、研修医の掲げるBなりC、Dの診断がまるでとんちんかんな誤答になっているとは思えない。研修医といえども医師であり、その知識のもとで下した診断だろうからである。その診断は「正答に近い間違い」、こんなところではないだろうか。

 そのBなりC、Dは結局否定されることになるのであるが、その否定すべきだとの指導役の思惑がその強烈な態度や発言などによって、素人の私たちにまで結論が確実に伝わってくるのである。このような筋立てからは容疑者B、Cの容疑を職場の上司や政治家などの強権力が、無理やり捜査から排除するような安手の刑事ドラマと同じような臭いが漂ってくるのである。
 それは決して「結局真犯人がAなのだからそれはそれでいいではないか」と済ませられるような話ではないと思えるのである。「素人にも分るように誘導されたシナリオ」、私はこの番組にそんな演出が秘められているように感じられてならないのである。

 それともう一つ。研修医の試行回答は途中経過まで入れると、一つの番組で最大9つ呈示される。私はこれまでに何度もこの番組を見ているから、その途中経過の回答数はけっこうな数になる。だとするなら、研修医の示す回答の中に、どこまで的確な診断だったかはともかく、最初、もしくは2回目、3回目にたまたま正解とピッタシカンカンだったというケースがあっていいような気がするのである。それは診断経過まで含めて100パーセント正しいというのではなくても、例えば錯覚、例えば誤解、例えば勘違い、例えばヤマ勘などにしろ、「結果的に正答に一致してしまった」というケースがあってもいいのではないかと思うのである。ましてや回答は病状の再現ドラマから推定される病名に限定されるのだから、研修医の示した病気がたまたま正解に一致してしまったというケースがあったって不思議はないと思うのである。

 もちろん、一回目の回答から正答が出てしまっては番組として面白くないことは分る。研修医がいきなり指導医をしのぐ名医になってしまっては番組としての面白みが削がれるだろうこともよく分る。研修医が患者の情報を得ながら三度の試行錯誤を繰り返し、カリスマ的指導医師の助言を得て正しい診断に到達する、これこそがこの番組の目的だろうことが理解できないではない。でも全員一致の正答になるまで、一度も研修医の口から正答が出てこないことに、私はどうしても不自然さを感じてしまうのである。番組の作為を感じてしまうのである。

 「誘導とやらせ」の境界を私は知らない。「助言と演出」の違いを理解できているわけでもない。それでも私はこの番組を見ていて、そこに意図的な演出、もっと俗な言い方をするなら「やらせ」があるように感じられてならないのである。


                                     2014.8.20    佐々木利夫


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誘導とやらせの境