時に人は悪逆非道な者を、そして残虐で残酷な者を、更には情け無用の者を、「人でなし」、「けだもの」と呼ぶことがある。そこにあるのは、恐らく人として当然に求められるであろう「善」を天秤の片方に置き、その対極に「人間でない悪」を置いて、両者を比較しようとするものであろう。だが少し考えてみるとそうした人でなしと呼ばれる部分こそが、「人でなし」と名づけられているにもかかわらず、人が人として避けがたく持っている部分なのではないかとこの頃考えるようになってきている。

 ライオンやハイエナが逃げ惑う小鹿を追い詰め、止めを刺し、口の周りを血まみれにしてその獲物で腹を満たす、そうした弱肉強食の世界を時に私たちは残酷さに満ちているかのように言う。しかし、食物連鎖の成り立ちや獣と呼ばれる動物の子育ての姿などを見ていると、それとは別の意味で人間の持つ悪の姿が際立ってくるように思えてくる。もしかしたら人の持つ悪は、人であることそのものの中にその根源があるのではないだろうか。

 どうしてこんなことを書いたのか言うと、今年(2015年)1月7日にフランスで起きたテロ事件及びその後に沸き起こった国際的なマスコミや世論の反応にどこか変な臭いを感じたからである。
 事件そのものは比較的単純である。成人二人を含む男兄弟三人組が、風刺画によってイスラムを批判したとするフランスの週刊新聞紙シャルリ・エブドの事務所に乱入し、編集者ら15人を射殺した事件である。この三人組を応援するとした別の男一人によるテロ事件も同時に発生し死者は17人になり、結果的に自首した未成年一人を除く三人はいずれも警察側との銃撃戦で射殺された。

 そこまでは私にも特に異論はなかった。どんな理屈があったところで、こうした事件を片鱗たりとも承認しようとは思わないからである。だからフランス国民がこの事件に抗議してパリで170万人、フランス全土では370万人とも言われるほどの人員がデモ行進を行ったことも、特に異様だとは思わなかった。たとえその隊列にイスラムやイギリスやドイツなどの世界の首相や政治関係者の姿が見え、アメリカを含む諸外国の元首などがこぞつてこの事件に対する批判のメッセージを発したとしてもである。

 ただ私はこの事件に対して、世界中がこぞって悪であると弾劾し、凶弾に倒れた新聞社の人々や巻き添えを食った人々、更には原因とされる風刺画を掲載した新聞を擁護する言論一色に彩られたこと、そしてマスコミもまた悪100点、善100点の観点からのこの事件を評価する論調になっていることに、どことない違和感を抱いてしまったのである。だからと言って、私はこうしたテロを承認したり擁護したりするつもりは少しもない。どんな目的があろうとそれを暴力で解決しようとする手段を容認しようとは、決して思わないからである。

 暴力と言ったところで殺人や犯罪への対処などが必要になる場合もあるのだから、どんな場合にも否定しようと思っているわけではない。だからと言って暴力による解決を、私刑などの力による解決を個人や集団に認めようとするものでもない。私は「法律」、そして「裁判」という形で、国民が承認した国家にそうした「暴力」の代行を委ねたのだと思っているからである。
 力による自力救済や自力執行は決して認めないとするルールの下で、私たちは暴力の執行を国家に委ねたのだと思っている。もちろんそうした暴力の中に、戦争や他国への侵攻や奴隷制度などと言った力の行使をどこまで含めていいかは、また別の議論になるだろうけれど・・・。

 さて今回の事件で、フランス人が信じ世界がそれを支持しているかのように持ち上げられている「自由・平和・平等」への思いが、本当にフランスにとっての貴重な宝として承認していいのだろうかと疑問に思ったのが、このテロ事件報道に対する違和感の最初であった。
 今回のテロ事件が行使した側の悪100点であり、銃撃された人々が善100点であるという考え方がまるで理解できないというのではない。ただ世界中の論調がそうした観点に偏っていることを見ているうちに、私のへそが少しずつ曲がり始めてきていることに気づいたのである。

 今回の事件で、襲撃された新聞社を支援しその報道姿勢を善100点と評価するような背景には、恐らく「言論の自由の擁護」という発想があるのだろう。どんな場合にも言論を暴力で妨げるような手段を認めることは許されないとする考えが背景なのだろう。言論の自由とはそのまま報道の自由と同義であり、新聞社への襲撃はこうした思いと真っ向から対立する「自由」への攻撃であるとする考えは分る。そしてそのことを否定しようとは思わない。

 言論だけが100点の値を持ちそれ以外はどんな正義も常に低位にあるとは思わないけれど、暴力で目的を達しようとする思いを是認するつもりはない。だが「言論だけが絶対無比の正義であって、これに反するどんな対抗手段も反論を一切許さない悪である」とするかのような論調には、どうにも付いていけないものを私は感じているのである。

                                  後段、「悪の意味するもの(2)」へ続きます。


                                     2015.1.16    佐々木利夫


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