言論の自由に反することごとくが「絶対的な悪」、「100点の悪」だとする論調には疑問があると、前稿で書いた(別稿「悪の意味するもの(1)」参照)。そしてそうした論調にすっかり同調してしまっているかのように見える世界の報道に、私は「全員賛成」に凝り固まったような危うさに世界中が感染してしまっているような感触を抱いてしまったのである。

 「言論を守れ」みたいな考えを筆記具に化体させているのではないかとの思いは、デモ参加者の多くがペンや鉛筆などをかたどったプラカードや模型を掲げていることからも想像できる。そしてそれはまた「ペンは剣よりも強し」の意思を主張しているのだと見ることもできるだろう。
 「ペンは剣よりも強し」という言葉は、言論が理不尽な暴力に打ち克つこと、もしくは打ち克って欲しいとの願いを示しているのだろう。どれだけ多くの人々が、理不尽な暴力に虐げられ耐えることだけの生活を強いられてきたかは、私たちは歴史の中から証明なしに承認できるだろう。

 だがこの言葉はそうした意味だけではなく、逆に言論が暴力よりも更に非情な傷を人に与える場合のあることをも示しているのではないだろうか。剣の傷は場合によっては癒えることがあるかも知れない。しかし、ペンだって生涯消えない傷を人に与えることができるのである。つまり、この言葉は両刃の剣としての意味を持っているということである。

 今回の事件に対し、余りにもマスコミが声高に「報道の自由」を叫ぶこと、そして世界の論調がそうした思い一色に傾いてしまっているような状況は、「ペン」の持つ力を余りも過大に評価することにつなげてしまうように思えてならないのである。そしてペンという象徴で示される思いが、剣そのものの力になってしまっているように思えてならないのである。

 もちろんテロやテロ行為を認めようとするのではない。ただ果たしてテロを「絶対的な悪」と断定してしまっていいのだろうかと疑問が生じ、始点もしくは終点から少し離れた位置を与えてもいいのではないかと思うような気持ちにさせるのである。ただ、その位置をどこに求めるのかは、とても難しい判断を強いられるだろうことは承知している。

 そうした思いは、最近発行されたシャルリ・エブド誌に再び風刺化を描いた漫画家レナルド・ルジエが、事件の容疑者を「ちょっと距離を置いて世界を見る。それがシャルリーだ。彼らはその心を失っていた」(2015.1.14、朝日新聞)と評していることからも少し感じることができる。
 だがこの評価を言葉として理解できないではないけれど、果たしてその「ちょっと」をどの程度の距離として認識すべきかは、天と地ほどにも判定が難しいことも事実である。そしてその「ちょっと」の差は、描く人にも読む人にもそして掲載する新聞社にも、更には世界中の人のそれぞれの基準として様々に求められているからである。

 最近は世論も少し落ち着いてきていて、少しずつ善悪ともに100点を基準とする評価を思い直そうとする風潮が見受けられようになってきている。ただそうした風潮は、逆に更なる難問を私たちに提示しているように思える。

 解決するための一つの基準を考えることはできる。それは「侮辱と差別を許さない」ことにあると思う。そしてその基準を私は十分に理解できる。でも理解できていてもなお、「どこまでが侮辱で、どこまでが差別なのか」の境界をどこに求めるかについては、依然として自分を納得させるものになっていないことに気づく。

 「許される自由」と「許されない自由」の境界を、人はどこに求めたらいいのだろうか。「すべては許される」ことが許されないだろうことは自明であると思う。だが、そこから一歩でも離れたら許されると解していいのだろろか。そしてその一歩の距離を誰が判断するのだろうか。

 もう一つの思いがある。「寛容」である。寛容とは、理解できないこと、許されないと思っていることを、そのままに認めることである。世界中の人間が、人間であるというだけでまったく同じ基準を持っているという思いを、幻想だと認めることである。イスラム教とキリスト教とが互いに理解できない部分を持っていることを承認し、アメリカ人と日本人にも理解できない部分のあることを認めるということである。

 そしてそれは、同じ日本人同士であっても同様であり、それはそのまま夫婦や親子や友人などの親しい者の間であっても同様であることを、所与の前提とすることである。つまりは、人は決して他者を理解することなどできないことを認めることでもある。

 だから人はいつも一人なのかも知れない。理解できたとの思いが時に錯覚であり、時に誤解であるのかも知れない。そうした考えを、淋しいとか苦しいとかと評価すること自体が、人が人を理解していないことの証左なのかも知れない。

 錯覚の世界に生きることは恐らく可能だろう。「人は互いに信頼できるのだ」とする思いの中に生涯を賭けてみるのも悪くはない。だが、それは勝利の望みなどない賭けでしかない。ならばその賭けが外れてしまうことを受け入れるべきであろう。外れたことを他者への責任としてなじるようなことはしないことである。賭けを成立させたのは、誰でもない自らなのであり、その賭けに乗っかった者がその責めを負うべきものだからである。
 
 ここまで考えて、人はどこまで寛容になれるのかについて迷っている。寛容とは「理解できないことでも許すこと」でもある。人の心を旅していると、どんな場合も境界という迷路に入り込んでしまう。それは単に「人の心」という得体の知れない思いだからではなく、例えば経済的な差別という現実さえもその中に深く入り込んでくる。

 何が中庸か、どこが中間層か、満足な生活とはどういうものか、そんなことに対する基準さえ私は持ってはいない。だが、貧困や暴力が己の人生を投げやりにしてしまうほどまでに人の心を虐げてしまっているとしたら、寛容や許しや許される境界などの境界が右へ左へとどんどん移っていくような気がしてならない。

 だとするなら、人が感じる右か左かの境目は、こんなにも単純な動機で決まってしまうのだろうか。人の思いとは、これしきのものなのだろうか。

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 (追記) 「悪の意味するもの」というタイトルで、先週と今週の二回に分けてエッセイを発表した。ところが書き終えてから、どうにもすっきりしないような感じが残ってしまったのである。それは、先週発表した文章の出だしの部分が、どうも以前に発表してしまっているような気がしてならなかったからである。それでパソコンの中身を検索してみたところ、なんと4年も前にタイトルも同じ、出だしも同じ文章を発表していたのである(1911年発表「悪の意味するもの」参照)。展開方法や内容、結論などは違っているものの、出だしはまったく同じ文章なのである。

 書いてあることの主義主張はともかく、一字一句違わないような文章が4年を経て私の頭の中に突然湧いてきたとはどうしても思えない。だとするならこうしたことが起きてしまった原因は、タイトルとその内容のメモを4年以上も前に書き、それをもとに既にエッセイを作っていたにもかかわらず、そのメモを処分せず今日まで残してしまっていたということにあるのだろう。

 つまり、同じメモからの二番煎じであるにもかかわらず、そのメモを再び復活させてしまうという失態を私は犯したのであり、それだけ発表するネタが不足していたということになるのであろう。「怠惰への誘い」と題して年初からエッセイを二本書いたけれど、怠惰の事実は毎週発表一本というエッセイの数の分野にまで侵食してきているようだ。私のエッセイのネタは、既に枯渇しかかっているのかも知れない。

                                     2015.1.22    佐々木利夫


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