ALSとは別名「筋萎縮性側索硬化症」と呼ばれる筋肉の麻痺を伴う病気の名称である。手足やのど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病である。数日前のEテレ(以前のNHKの教育テレビ)で、この病気の患者を追いかけるドキュメント番組を見た(ハートネットTV)。

 この患者は少しずつ筋力がなくなっていき、歩行困難からやがて寝たきりになっていく。そしてやがて自発呼吸すらも難しくなってくるので、最終的には人工呼吸器に頼らざるを得なくなるのだそうである。もちろん口の筋肉も同様に弱くなってくるから、会話はおろかパソコンなどを使った会話なども難しくなっていく。このことは他者とのコミュニケーションも次第に難しくなっていくことを意味している。

 番組はそうした患者のコミュニケーションを助けるために、BMI(ブレイン・マシン・インターフェイス〜脳波でさまざまなコントロールを試みようとする装置)の可能性を探るものであった。目の動きでパソコンを操作するような現在のシステムから、脳波による操作への移行の試行錯誤である。

 この病にかかった人たちは、内的な意識ははっきりとしているらしい。そこで自らの将来に対するさまざまな思いもまた、自らの意思で決定したいと考えている人が多いようである。そうした時この病気にかかった患者の多くは、人工呼吸器をつけなければならないような状態を一つの境界と定めているようである。つまり、延命治療を「この時まで」と考えている人が多いということである。

 この番組の主人公である彼もそう考えていたと紹介された。40歳代で発病し、60歳近い現在は寝たきりの状態にある。子ども二人がいるけれど、毎日の生活は専ら妻の介護によって維持されている。こうした「この時まで」との選択の背景には、彼の中に「これ以上妻に面倒はかけられない」とする思いがあったからであろう。

 その彼が突然翻意する。それはALS以外の病気だったらしいが、自らの命の危険が間近に迫ったことがあり、それが原因だったとアナウンサーは解説する。死の恐怖を目前にして彼は、「人工呼吸器が必要な状況になったら、延命手段は選択しない」としていたこれまでの決断を翻すのである。

 「どう生きるか」、「どう死ぬか」の問題を、本人の意思のみによって決められることだと思っているわけではない。願望としての意思は尊重するにしても、それが必ず結果に反映されなければならないとまでは言えないだろう。そうした意味で、私は彼の当初の思いを尊重することにやぶさかでないし、またその思いが途中で変わったとしてもその変更を非難したいとは思わない。

 ただ、この番組を見ていて、どうにも気になる思いが残ってしまったのである。「生きる決意へと変更した」彼の変化を問題視したいのではない。そうした心変わりは「生きる決心への変化」として医師も応援するだろうし、ましてやそうした変化を否定したり間違っているなどと思う人などは、家族を含めて一人としていないだろう。

 それでもなお私は、「生きる決意」への翻意を彼の意思の変化としてのみ捉えている番組の構成に、どこか違和感が残ったのである。彼は自力では生きられないのである。「医師による治療」という基本的な支援がなければ、恐らく生存はひとときなりとも成立しないだろうから医師の思いは大切である。だからと言って「妻による介護」という側面にまるで触れることなくなされた「生きる決意への翻意」という決断に、どこか別の光を当てて考えてみる必要があるように思えたのである。

 翻意が身勝手だとか妻に介護を放棄しろとか、そういうことを言いたいのではない。ただ彼の生存に必須であろう妻の思いに少しも触れることなく番組が仕上がっていることに、どこか中途半端な思いがしてならなかったのである。

 彼は「私の命の期限は、人工呼吸器が必要になるときまでです」と決め、その意思を妻はもちろん子どもたちにも、そして恐らくは医師や身近な人たちにも伝えていたと思うのである。その覚悟を聞いた妻が、夫の意思をどこまで真剣に受け止めたかの判断は難しい。しかし、妻はその意思を納得すべく自らに言い聞かせたと思うのである。その時が来たときに実行できるかどうかは別にしても、とりあえずの覚悟だけはしたはずである。

 それが突然の翻意である。これによって妻の介護は突然、夫の心臓死という生涯にまで及ぶことになったのである。その翻意を聞いた妻がどう思ったか、それは分らない。この番組は夫の「生き延びる」との意思の変化を承認し賞賛する形で構成されているから、たとえ妻がその翻意に戸惑ったとしてもそれを放映することはない。むしろ、周囲の人たち全員の「良かった、良かった」という方向へと進んでいく。

 でも本当にそうなのだろうか。翻意によって妻の心の中に戸惑うような気持ちが、一瞬でも生じなかったと言えるのだろうか。延命中断の宣言に「ホッ」とした思いを妻が抱いたとしても、そしてその宣言の翻意にどこか裏切られたような思いを瞬時にしろ妻が抱いたとしても、私には理解できるような気がするのである。妻がそう思ったと言いたいのではない。ただ、そう思ったかも知れない妻、思うかもしれない妻への配慮というものが、この番組にはまるで欠けていたように思えて仕方がなかったのである。

 身動きできない夫の介護に全精力を傾けることは妻として当然であるとするような、そんな気持ちが番組構成の背景にあるように感じられてならなかったのである。

 もしかしたら答などないのかも知れない。「一人の身動きできない患者」がそこにいたとき、医師や看護師や社会保健施設など世話をする充実したスタッフが回りにいたとしても、それは職業としての世話でしかない。24時間を見守り、話をし、聞き、うなずき、一緒に笑い、思い出を語り、食事し、排泄の世話をする。そうしたことを果てるともなく繰り返していく機能を、職業的な介護に望むことなど恐らく難しいだろう。

 でもだからと言ってそれをすべて「妻だから」、「夫だから」、「身内だから」ということだけに委ねてしまうことが妥当だとは、私には到底思えないのである。

 介護で使われる常套句に、「一人で抱え込まないで・・・」がある。言ってることは分る。でも私にはその言葉が、「時々の骨休めはいいけれど、家族なんだから抱え込むことぐらい我慢しなさい」と言っているように聞こえてしまう。「抱え込む日常」という状況を当然視しつつ、それをあたかも「抱え込まないで・・・」という一過性のオブラートに包んで免罪符にしてしまう介護評論集団のしたり顔が、どうしても浮かんできてしまうのである。

 前にも言ったけれど、「答などない」のかも知れない。でも答がないことと、解決しなければならない問題が残っていることとは違うのである。答がないことを示すだけでも、解決しなければならない問題が残されていることを多くの人に知らせる役割になっていると思うのである。だから私は、「解決策は見つからないけれど分っているよ、一緒に考えよう」とするような、妻に寄り添う番組構成がどうしてできなかったのだろうかと、残念に思えて仕方がないのである。

                                     2015.6.13    佐々木利夫


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ALSと生きる決意