2015.5.14夕方、その日に閣議決定された安保法制を巡る安倍総理の記者会見があった。「将来の憲法改正」への段取りが始まったとの穿った見方もあるようだが、そこまで深読みすることはないように思っている。安倍総理の発言によれば、国際的に紛争が多発しており、日本も北朝鮮や韓国・中国との紛争などがあって一国だけでの対応には無理がある、ことが閣議決定の背景にあるようである。

 そうした背景が、政権がこれまでの個別的自衛権(日本が攻撃されたときのみに武力を使うことができる)しか認められないとしていたこれまでの憲法解釈を、集団的自衛権(日本が攻撃を受けていなくても、我が国と協同して防衛に当たっている国が攻撃を受けたときは武力を行使することができる)にも及ぶとの見解へと舵を切った原因とされている。

 そうした解釈の変更がまるで分らないというのではない。またそうした変更が直ちに憲法に違反すると批判するつもりもない。ただ、私たちは今の憲法を運用する過程で、集団的自衛権への解釈変更とは別の道を選択してきたのではないかと思ったのである。

 確かに「武力を持った敵が攻めてきたとき日本だけで防衛できるのか」、「自分の国は自分で守るのが本来だが、その国防に協力してくれている仲間が攻撃を受けたときに日本は知らんぷりをしていていいのか」などの疑問はよく分かる。我が家への泥棒の侵入避けるために鍵をかける、鍵を二重にする、場合によっては銃を用意するという方向は確かに考えられる。そうした方向がやがて町内会で自警団を作って夜回りするような方向へと拡大し、それが隣の家にも泥棒が入らないようにする、町内全体が安全に過ごせるように自衛するなどへと拡大していくことも一概に否定はできないだろう。

 こうした思いが我が国の安全保障問題にも考えられているだろうことは分る。我が家の周りに電流を流した塀を巡らし、武器を装備することで侵入者を防ごうとすることも一つの方向である。町内会の自警団は、考え方を変えるなら警察を頼りにすることと同義であろう。そうした思いの範囲を、近隣や町内会、住んでいる市町村や国の防衛にまで広げたって構わないだろう。そしてこうした思いを、アメリカという国にまで広げたのが日米安保になっているのだろう。

 「互いの国の平和を守るため」に「互いが協力し合うこと」は、防衛体制としての一つの方向であることに違いはない。それは「互い」なのだから、我が国に危険が迫ったときには協力国が助っ人に来てくれることを約束するのは当然のことだし、その反対の場合も当然のことである。そうした意味で、集団的自衛権の考え方が間違っているとは言えないだろうし、むしろ当然だと言っていいかも知れない。

 しかしこうした方向だけしか残されていなかったのだろうか。確かに現在の世界情勢を見る限り、多くの国が「武力対武力」の方向へと進んでいることに違いはない。それが領土・領海を巡るものにせよ、宗教を巡る対立にせよ、はたまた資源を巡る国内対立にせよ、当事者が紛争の解決を武力に頼ろうとする方向へと動いていることを否定できない。そして少なくとも一時的には「強い者が勝つ」という結果を招いていることも事実である。

 だが日本の憲法は、そうでない方向を目指すことに決めたのではないだろうか。武力も確かに一つの解決方法であることに違いはない。力ある者がその力を行使し、力なき者がその力に従属する構図は、歴史上何度も繰り返されてきた。たとえそれが国を巡るものであるにせよ、家庭内のトラブルであるにせよである。そしてそうした方法が最終的な解決になるものでないこともまた、当事者はおろか当事者以外の者にとっても自明のこととして理解してきたのではなかっただろうか。

 力による解決に、手っ取り早さという利点があることは否めない。ナイフを持つ者にピストルで立ち向かうことは、確かにナイフを持つ者を従わせることができる。だが、相手がナイフをマシンガンに持ち替えたとき、その立場は一瞬にして逆転する。そしてピストルを持っていた者が、そのマシンガンに対抗するためにやがて大砲を持つことに執心するだろうことも・・・。

 それが現在開催されているNPT(核兵器不拡散条約)の再検討会議へと続いている。1970年に発効したNPTがきちんと機能しているかについて、世界は5年毎に開かれる190カ国による会議で検討している。そして世界の核軍縮を巡る最終文書を取りまとめるべく、現在話し合いが行われている。残る数日で一致文書の採択ができるかどうかの話し合いである。

 核の抑止力に期待する核保有国は他国が核兵器を持つことを望まず、自国の核兵器の廃棄には消極的である。一方、核兵器を持つことが許されていない多くの国は、それなら核兵器そのものを保有国も含めて全面的に禁止せよと主張する。かくして、「核兵器の段階的減少」を唱える核保有国と「全面禁止」を唱える持たざる国の確執が、一ヶ月もの会議期間を要しながら未だに最終文書の採択を巡って混乱を招いていると聞く。

 つまり人類は「こぶし」で闘った時代を経て、その手段を核兵器にまで拡大させた。そして数千年にも及ぶ教訓にもかかわらず、人はなお力による支配の結末をつけられないでいる。

 強力な生物兵器や化学兵器などが開発され続けているから、核兵器を最終兵器と呼んでいいのかどうか私には分らない。だが現在の性能からするならこれ以上の効力は不必要であり、核兵器を事実上の最終兵器だと考えてもいいような気がしている。核を保有する国は限られているかも知れないけれど、人類は既に最終的な力を持つ兵器を手にしてしまったのである。それでもなお私たちは、「力による支配」からはその答を見出せないでいる。

 それを解決する選択肢の一つが日本国憲法にあるなどど、驕るつもりはない。現行憲法の草案を作った米国は、恐らく第二次世界大戦に投じられた日本のすさまじい力に恐れをなしたのであろう。そしてその力を封じるために九条を設け、九六条でその改正する手段を厳しくしたのだと思う。それでも私たちは、政府も含めて「戦争放棄」と「軍隊の不保持」を宣言した九条を遵守し、集団的自衛権の行使についても「理論的には可能だけれど解釈上は許されない」として、その精神を守ろうとしてきたのだと思う。それはまさに「力による解決」は目指さないとするものであった。

 その手段として何を選ぶか、その選択は力の行使を排除しようとする国民の意思だったと思う。外交という話し合いだけで防衛の効果を上げることは、どれほどの困難を伴ったことだろう。また「金は出すけれど血は流さない」との国際的な非難に、どれほど耐えなければならなかったことだろう。

 それでも日本はこうした困難に打ち克ってきたのである。批判に耐えて生き残ってきたのである。恐らく軍隊を持たない国など、世界中にあり得ないのかも知れない。それでも日本は「馬鹿の一つ覚え」みたいに、憲法九条をくり返してきたのである。それはきっと「金で日本の武力を整える」ことよりも数倍も苦しいことだったと思う。経済大国と呼ばれる日本が国際協調という大義名分の下で、「憲法がそうなっているから」との言い訳まがいとも思われる一つ覚えをくり返すことが、これまでどれほどの苦渋を招いていたかは想像に難くない。

 それでも日本は頑張ってきたのである。それがこのところ変化の兆しを見せているようなのが、私は気になって仕方がないのである。安部政権はいたるところで、自国の防衛の必要性や国際関係の安定などを訴えている。そして10の法案からなる安保法制によって、日本が戦争へ巻き込まれることはないと強調する。

 確かに一つ一つはそうなのかも知れないが、憲法を改正するための国民投票法の制定、集団的自衛権容認への解釈変更、複数の法案からなる安保法制の閣議決定と国会への呈示、アメリカにおける安倍総理の議会演説、日本の国会や記者会見などで繰り返される「日本をめぐる安全保障環境が変化している」との発言などなどに、私は全体として日本を右傾化(もしくは力を持つことの承認を)させようとしているかのような胡散臭さを感じて仕方がないのである。

 疑心は暗鬼を生むの例えもあることだから、こうした思いは私の思い過ごしなのかも知れない。それでもなお私は、世界はいたるところで「力による解決」に向っており、日本はそれに呼応しようとしているように思えてならないのである。

 「憲法がそうなっているから仕方がないのです。武力を持てなくてすみません。ごめんなさい。代わりに可能な限りお金は出すようにしますから。でも憲法を改正するつもりはありません」みたいな言い訳は、きっと苦しいだろうと思う。為政者として国際社会に対し、恥ずかしいと感ずるかも知れない。それでもなおそれが為政者として耐えなければならない責務であり、憲法九条の存在とその運用はそうした恥ずかしさを補って余りあると私は強く感じているのである。


                                     2015.5.22    佐々木利夫

  (注) NPT再検討会議は、5.23の報道(NHK朝10時のニュース)によると中東の核問題が紛糾し、結局最終合意文書の採択がなされないまま散会した模様である。人はかくも「力によらない解決」の手段を持てないまま、途方に暮れている。


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安保法制の行方