タイトルにこのテーマを取り上げてしまってから、さても困難なテーマを選んでしまったものだと実は困惑している。それはつまり、「死」は生物も含め世界中の種としての人類が数十万年か数百万年かを通じて一人の例外もなく繰り返されてきた普遍的な事実であるにもかかわらず、そこに「自分の死」という視点を取り入れたとたんに、突然「未知なるもの」に変身してしまうことにある。

 誰もが共通認識として理解しているはずの「死」であるにもかかわらず、「自らの死」になったとたんに、かつても、これからも含めて「死」はたった一度しか存在しないことに気づく。しかもその死は、「未経験な現象」、「未知なる領域」に入り込んでしまっているのである。
 もちろん人が他者の死のすべてを知っているわけではない。私を例にあげるなら、私は親族とか身の回りの数人、数十人の死しか知らないし、しかも「現実的な死」、「死を目の当たりにするような場面」を考えるなら、その機会はもっと少なくなる。

 それでも私たちは「死」が必然であることを当たり前のこととして理解している。死がどんな例外もなくすべての人に、平等にそして確定的に訪れることを疑うことはない。それは私たちが「他者の死」を事実として知っているからである。不老を願い、不死を希求した先人の数や思いを知らないではないけれど、どんな権力者にも、どんな金持ちにも、またまたどんな知恵者にも、死は例外なく訪れてきたことを知っているからである。

 それはたとえ「己の死を知っている先人は皆無であろうこと」を理解していたとしてもである。そしてそのことは「他者の死が既知である」ことを承認し、同時に「自分の死が未知である」を認めることでもあったのである。それは「死を知っている」ことと「死を経験している」こととは異なることを是認することでもあった。

 にもかかわらず、私たちは「安楽死」という概念を知っている。それを自然死と対比させることには異論があるけれど、一種の「他者による人為的な死もしくは他者に委ねた自死」の側面を持つ。ところで、安楽死とは果たして誰の「安楽」を意味するのだろうか。
 一義的には「私が苦痛なく穏やかな気持ちで死を迎えられること」が基本にあるといえるだろう。つまり、「死にいく者の安らぎ」が安楽死の背景にあるとみてよいだろうということである。

 一方で安楽死は、得てして技術的な側面を持つ。つまり「誰の手でなされるのか」、「どんな方法でなされるのか」という他者の行動を巡るものである。そしてそれは一つの客観的な事実として、多数の人たちに承認されるであろうことが前提となる。

 安楽死の第一の要件は安楽死を望む者の意思の確認であろう。次いで医師や親族による臨終への立ち会い、更には多数のものに承認されるであろう死への手法などなどである。

 そうした立会いや手法などの技術的な問題についてはとりあえず置いておくとして、ここでは「安楽死を望む者の意思の確認」に焦点を当ててみよう。この確認が基本的には「安楽死を望む個人の意思」であることは当然のことである。しかしながら、現実にはその意思が他者である場合が多く存在することがすぐに分かってくる。つまり、「本人の意思」に代わって他者の意思(多くは親族であろうけれど)が安楽死決定に深く関わり、本人の意思を代弁するという形式をとることが多いことである。

 恐らくは私たちには安楽死の決定者は本人であるとする思いが多いであろう。そしてその決定の背景には恐らく、「もう生きているのが面倒になった」程度の軽いものから、「自分の人生に疲れた」、「死よりも耐え難い苦痛から開放して欲しい」などといった重いものまで様々な要因があるだろうことも理解できる。

 どこまで本人の意思を尊重するかは場合によるだろう。そして最終的には恐らく他者(恐らく親族)が安楽死を承認するケースが多いだろう。その理由には恐らく「自分で決定することはできても、死を実行に移すことはできない」という現実があるのかも知れない。またその「実行できない」理由も、死に対する本能的な恐怖や無意識の自己防衛みたいなものから、方法・手段が思いつかない、更には実行するだけの体力がないなど多様な要因もあることだろう。

 でも仮に「自らの意思による決定が合理的である」としても、その決定はいつの時点での思いを指すのだろうか。人の思いは様々に変わる。安楽死への希望が、不意の子どもや友人の訪問や孫が持ってきた下手な絵一枚で変わってしまうことだってあるかも知れない。そして見舞いに来た者が帰ってしまった孤独の中で、再び反転することだってあるかも知れない。更には「安楽死へ向かう具体的な死の過程の中」での心変わりだってあると思うのである。

 「安楽死」に際しては、恐らくその選択をしたことやそうした方法でいいことなどを記した文書が作成されることだろう。これは自己の死に対する承認の契約である。だとするなら、「契約書の成立とともにその変更は一切認められなくなる」のだろうか。もし仮に変更が許されるとしたなら、それはいつまでなのだろうか。「安楽死へ着手してしまった」ら、そして不可逆的に蘇生が不可能な状態になってしまったら、その時点を以って意思の変更は認められなくなるのだろうか。

 仮に変更を認めるとしたところで事実として変更不可能なのだとしたら、本人の意思を無視して当初の思いを承認したことにしなければならないのだろうか。たとえ声に出せずとも「死にたくない」と叫ぶ安楽死希望者がいたとき、私たちはどこまでその意思を尊重すべきなのだろうか。「相手の死を承認した他者としての自分」に対して、どこまで割り切りを与えるべきなのだろうか。

 ところで他方において同じ安楽死でも、「本人に代わって意思表示をする」という場面がけっこう多いことに気づく。今まで人間の話をしておきながら突然主人公を変更するのは不意打ちになるかも知れないが、動物の場合は例外なく代理意思に基づく安楽死になる。ペットや家畜や競走馬、それ以外にも助けられない野生動物の処分などなど、世の中にはけっこう「安楽死」という概念が使われる。

 それは決して「死にいく者(動物)の意思」でないことは明らかである。なぜなら、誰もその犬や猫が「安楽死を希望している」ことなど知りようがないからである。もしかしたら、その動物が現実に味わっているだろう「苦痛」ですら人には理解できないかも知れない。つまり「安楽死の選択」は動物の意思とはかかわりのない次元における、周りにいる者の独りよがりな意思表示でしかないということである。

 そしてこれは人の死の場合にも当てはまる。「苦しさを見ていられない」、「植物状態で何の反応もない」、「かつて本人が安楽死を希望していた」、「治る見込みがない」など理屈は様々であろう。そしてもっと言うならその延長上に、「もう面倒を見切れない」、「これ以上相手の人生にかかわりたくない」など、本人以外の意思が存在する場合だってあるかも知れない。

 この場合の「安楽死」は、その人なり動物の生死を決定できるであろう権限を持っているかに見える「他者である人間の意志」に委ねられる。つまり「安楽死」を望むのは本人ではなくて他者だということである。

 生物は進化の過程で生き残る術を、不死から生殖によって残すという方向へと変化させた。それは「死」を交換条件とした選択だったとも言えるだろう。単細胞生物の中には未だに不死の生命が残されている例があると言われているけれど、多くの生物が「雌雄の生殖による種の存続」を選び、その代償として「不死」を放棄したのである。

 命はいつの場合も厄介なものである。「命」そのものを、きちんと理解できないでいる現実がその証左であり、遺伝子操作や様々な不妊手術などがそれに更なる拍車をかける。「命」の定義をできないまま、「死」を論ずることもまたどこか中途半端である。つい最近テレビ(NHK eテレ 「モーガン・フリーマン 『時空を超えて』」)は、人間の記憶をコンピューターなどにすべて記録できたら、「その人はまだ生きていると言えるのだろうか」との疑問を投げかけていた。

 確かに「プログラムの中で生きる命」という思いには違和感が残る。だが「人間そっくり」な手や足や皮膚などを作り出せる技術は、今や目の前にある。人口の指は好きな人の肌のぬくもりを伝えてくれるようになるだろうし、また反対に触れられた感触をも伝えてくれるようになるだろう。感触もまた神経の刺激というデジタル化された信号なのかも知れないからである。そうしたとき、「人の心を宿したアンドロイド」と「人間」の違いはどこにあると考えればいいのだろうか。

 他方で様々な再生医療の発達は、「部品としてのその人」の生き残りに寄与するようになり、「死の延期」は「不死への目標」へと私たちの思いを近づける。それは倫理の問題ではない。「神の領域」として判断を留保することすら許されないところまできているような気がしている。「神」はここでも死んでしまったのかも知れない。


                                     2015.7.3    佐々木利夫


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安楽死の選択