数年前から断捨離という言葉が巷を行き交っている。持っているモノを捨てることで、モノへの執着心から離れて人生が豊かになる、こんな意味を持っているのだろうか。確かにそうした思いへの意味は理解できる。私たちは長い間「豊かさ」という現象をモノの集まりの中に見出してきたからである。沢山のモノに囲まれる生活こそが豊かさの象徴であり、満足の実感であると信じてきたからである。

 タンスの中は着ることのなくなった衣服で溢れ、部屋は使いこなせない家電に埋もれている。最近は溢れたモノを貸し倉庫を利用して保管するまでになっている。こうして私たちは溜め込むこと、あふれることの中に、豊かさであるとか充実を感じてきたことは事実である。

 そうしたことどもに対する反省が、断捨離という言葉の中に表れているのかも知れない。単にモノを捨てるというのではなく、捨てることに人生を見直すという発想をつなげていこうとするものであろう。

 最近、「実家に古い荷物が溢れ、整理できないでいる父が心配」と嘆く娘の相談、という形をとったテレビを見た。家庭や個人の色々な悩みを専門家のアドバイスによって解決するとのドキュメント構成で、NHKで半年ほど前から始まった「助けて! きわめびと」という番組であった。

 相談者は結婚して家庭を持っている娘で、目的は「母を亡くして父一人で住んでいる実家がモノで溢れて狭い」、「孫を連れて行っても泊まることすらできない」、「せめて泊まれる場所を確保できる程度に部屋を整理できないか」が主たる要望であった。

 そこへ「きわめびと」たる整理の専門家、女性コンサルタントの登場となる。テレビカメラの前で、家の中の片付けが始まる。手始めは台所である。積み重ねられ壁に張りつけられた様々な調理器具や鍋などなど、調理にも体を斜めにしなければならないほど、この台所は狭い。

 登場人物はこの台所を使っている父、そして娘、更にコンサルタントの三人である。だが、もう一つ忘れてならないのは、視聴者には見えていないけれどこれを映しているテレビカメラの存在である。視聴者には決して見えず、しかも登場者にはどんな時にも見えているカメラである。撮影しているのはNHKのスタッフであろうが、それは一人ではないだろう。そしてその映像はやがてテレビで放映される約束になっているのである。

 コンサルタントは整理の必要性を説き、娘が手伝って一つ一つのものに対して父は捨てるか残すかの選択を迫られる。「毎日使うものだけ選んでください」、コンサルタントはこともなげに言う。判断に迷う父にコンサルタントは「時々使う」とか「使うかもしれない」ではなく、「毎日ですよ・・・」と念を押す。父はゴモゴモと口の中で何やら呟いている。

 何を言っているのかは分らない。だがきっと、「毎日じゃないけど、時々は使っている・・・」と呟いているように感じる。それとも「そんなに使っていないけど、これは妻と一緒に買ったんだ・・・」と言っているのかも知れない。毎日使っているわけではないが、「何らかのこだわりがある」のだろう。

 だがコンサルタントの決断は、「毎日使う」である。これで台所の山積みされた道具類は「毎日使う」、「毎日は使わない」の二つのセクターに分類される。

 一つ一つのモノに対して、「これ、毎日は使わないでしょう・・・」とコンサルタントと娘は言い、カメラが父の顔をアップする。これは強制であり脅迫である。そのモノが「毎日使う」ジャンルに入らないだろうことは、視聴者にも大体の判断はつく。

 中には「絶対使わない」モノもあるだろうけれど、「時々使う」モノもそれなりあるはずである。だが命題は「毎日使う」である。「いや、それでも残す」と言ったら希望通り残すことはできるだろうけれど、番組の意図に反するだろうことぐらい父にだって分る。番組の意図が「整理する」であり、このモノが「毎日使う」ジャンルに属さないことを父だって自覚しているだろうからである。

 だから「毎日は使わない」に分類すべきであることを、コンサルタントも娘もそしてカメラも強制しているのである。そもそも「実家を整理する」という番組の企画そのものが、そのモノを「毎日は使わない」に投げ込めと命じているのである。

 かくして台所はもとより各部屋の様々なモノがこのような決断を迫られる。もちろん父には「孫に会いたい」、「ゆっくり食事もしたい」という願望はある。娘の「折角遊びにきても泊まるだけの空間がなくて、近くの宿泊できる公衆浴場を利用する」ことは避けたいとする願いも分る。そしてその解決がこの番組であり、カメラの与えられた使命でもある。

 整理されたものは「捨てる」、「リサイクルショップで換金する」に分けられる。亡くなった妻の衣類などは、「ごみにしてしまうのは忍びない」、「せめて誰かの役に立てて欲しい」との思いもあってリサイクルショップへと向かう。40点で1400円です、と店長から告げられ、ほとんどのモノが一点一円で引き取られる。

 整理は決断である。ごみ屋敷で暮らすような生活に娘が困惑していることも分らないではない。どんな思い出も人はいずれ忘れてしまうことだろう。どんなに貴重な妻との思い出の品であり私の思い出の品だったとしても、そのモノが目の前から消えてしまったなら、いずれ思い出そのものも消えてしまうことだろう。そうした「思い出があった」ことそのものが消えてしまうことで、思い出が始めからなかったことと同じになってしまうだろう。そして「父である私」がいなくなってしまったなら、そうした「思い出そのもの」の意味すらなくなってしまうことだろう。

 それが分らないではない。でも少なくとも生きている間は、そのモノを通じて思い出はよみがえってきたかも知れないのである。そうした「私だけの」、「つまらないかも知れない思い」が、一点一円で目の前から永久に消えてしまうのである。

 撮影されている父の姿は、どこか引っ込み思案で自ら決断し決定するタイプには見えなかった。だからこそ捨てるに捨てられずモノの中に埋もれた生活を送ることになってしまったのだろう。それを解放する方向へと後押しするという意味では、コンサルタントや娘の気持ちが分らないではない。

 孫は中学生くらいには見える女の子二人であった。娘が父の家に泊まりたいというのだから、それなり遠距離地に住んでいるのだろう。それほど豊かなじいちゃんの生活には見えなかったので、せいぜいが食事を楽しむくらいだろうと思う。

 だとするなら、年に何度訪れることができるだろう。どこまで「孫がじいちゃんと食事する」ことを楽しみにできるだろう。私は孫一家が帰った後、家の中にたった一人で残された父の姿が浮かぶ。困ると言われたけれど、それなりモノで埋まっていた生活が、ある日を境にガランとした空間ばかりが目立つ環境に突然変わったのである。それも、このスタイルは「父よあなたが選択した」のだという名目を残してである。

 思い出に浸るだけが生活ではないだろう。だがその思い出につながるモノはすべて消えてしまった。なんたって「毎日使うモノ」しか目の前にないのだから。確かに思い出の全部が捨てられたわけではない。だが未練あるものはダンボールに詰められて、むかし子供部屋だったという部屋に何段にも重ねられて積まれてしまっている。箱には品名が表示されている。「いつでも引き出せるよ」と娘もコンサルタントも言う。父は箱を引っぱり出して蓋を開け、またぞろモノを出すのか。

 妻を失った父は、思い出のモノをも失ってしまったのである。ガランとした「ゆとりある部屋」を得た代わりに、年に数度しか来ない孫、もしかしたらこれから段々来なくなるかも知れない孫と引き換えに、老人となった父はポツンと一人の夜を毎日毎日過ごさなければならないのである。これを、果たして「断捨離」と言っていいのだろうか。体を斜めにしなければ使えなかった台所には、整理してはならなかった大切な空間と思いがこもっていたのではないだろうか。そしてそれを私たちとカメラは無造作に奪ってしまったのではないのだろうか。


                                     2015.11.20    佐々木利夫


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断捨離の行方