努力が必ず報われるなんてことを私は信じていない。恐らく世の多くの人もまた同様な思いを抱いているのではないだろうか。それでもなお努力と成功を結びつけるような神話が、サクセスストーリーの主人公の話であるとか教育とか講演など多くの機会で見受けられる。

 それは単にそうした話の耳当たりが良いせいなのか、それともその人たちはそうした神話を本当のことだと信じているからなのか、その辺のことはよく分からない。もちろん努力なしには成功もまたおぼつかないだろうことを理解できないではない。棚ぼた式の成功もないとは思わないけれど、必死の努力が成功の要因となったことのほうがきっと多いだろう。

 ただここで私が言いたいのは、努力の結果が常に成功に結びつくとする神話に対する疑問についてである。なぜなら努力のほとんどは、成功とは結びついていないと思っているからである。

 何をもって成功というか、どこまでの到達を指して成功と呼ぶのか、その境界を私にきちんと理解できているわけではない。成功への願望と単なる夢想の違いでさえ、私には区別できていないからである。それは多くの努力がその人に対して、成功の記憶を与えることなく霧散してしまうケースが多いような気がしているからである。そしてそれは、「成功とは希望だけで終わるものだ」との意識を、人に与え続けるものだとすら思っているほどである。

 「努力して成功した人などこの世にはいない」などと、言いたいのではない。努力を積み重ねることで、成功への道筋を辿ってきた人が多くいるだろうことを否定するつもりはない。それでもなお私は、努力と成功をイコールで結びつける方程式、更には努力を成功の要件とするような風潮を嘘だと思っているのである。多くの人の多くの人生が、「努力しても成功しなかった」ことの残滓に満ちているのではないだろうか。私にはそうした挫折の連鎖が、多くの人たちの人生を作り上げているのではないかと思っているのである。

 それではそうした努力は無駄だったのかと問われると、そのことにも私は反対したい。むしろ、どんな小さな努力であったとしても、その努力に無駄という評価を下すことは誤りなのではないかと思っているのである。成功に届かなかった努力の残骸は、多くの人の多くの人生に恐らく死屍累々ともいえるほどにも満ちていることだろう。それでもなお私は、小さな努力に対してもそれなりの評価を与えたいのである。

 もう一度繰り返す。確かに私は「何が成功なのか」を判定するための基準を知らない。だからと言って、その基準が「誰にも分らない」ほど複雑怪奇で哲学的な解釈を要するものだとも思っていない。もちろん完璧な答なり解釈を求めようとするなら、恐らく世界の誰もが定義できないほどの複雑さを持っているのかも知れない。しかし、私たちはもっと単純な意味での成功意識に対する基準を持っていると思うのである。

 その基準が仮に、「希望がほどほどに叶うこと」程度のざっくりした評価であり、そして数人にせよ身近な人々から「おめでとう」と言ってもらえる程度の基準でいいのなら、そんなに難しく追求する必要などないように思える。そうしたざっくりとした基準のほうが、たとえ100点満点ではないにしても「誰もが同感できる範囲の成功」として、私たちの経験則に合致するように思えるからである。

 だからこそ、成功に到達しなかった努力であっても無価値だと評価すべきではないと思っているのである。その努力をゼロとしか評価できないゴミと同視すべきものなのではないと思っているのである。もちろん100点を与えてもいいほどの努力として評価するような努力なら、恐らく「成功」と呼べるような結果を生んでいるだろうから、そうした場合はまさに「努力は報われる」ことになるのだろう。

 だがそこまで到達しなくとも、「その努力は無価値ではない」ということを言いたいのである。たとえ成功体験が得られなくても、努力した事実は努力した人の血となり肉となっているということである。1+1=2であることを理解できたからと言って、東大入試に役立つことはないだろう。しかし、この式を理解できたことによって、例えば患者に対する服薬の投与が朝晩二度である医師の指示を、その人は的確に理解できると思うのである。ベートーベンの第九の感動が、仕事の行き詰まりの軽減や新しい発想に役立つことがあると思うのである。

 努力が時に邪魔な血や肉になることだってあるかも知れない。そしてその邪魔になった血や肉が、時に誤った判断を誘導することだってないとは言えないだろう。だがそうしたことは成功へ結びついた努力によって身についた血や肉の場合でも同様だと思う。身についた血や肉がどんな場合にも無駄になるわけではない。同じ血や肉が、あるときは邪魔になっても、違う場面では役立つことだってあると思うのである。

 私はどんな努力も無駄だとは思わない。たとえそれと自覚できないまでも、なされた努力は自らの血や肉になっているのだと信じているのである。だから私は、たとえ努力が報われなかったとしても、常に「ヤケになるな」と自分に言い聞かせ、他人にもそう伝えているのである。

 「ヤケ」になることは多くの場合、努力したことを根こそぎ否定してしまうと思うのである。場合によっては根こそぎどころではなく、努力したことよりももっと深い傷跡をえぐり出すことになる場合だってあると思うのである。そんな例を私は、職場や人生で何度も経験している。ヤケになった人が、ヤケになったことによって自らの実力以下の評価を受け、そうした連鎖の繰り返しの中でますます坩堝にはまっていく例を何度も知っている。

 少しずつでいい。僅かにもしろ身についた血や肉は、決してその身を裏切ることはない。僅かずつ、それと気づかないほど僅かずつであっても、努力はその人を成長させると信じているのである。成功とは言えないほど小さいことかも知れないけれど、やがて努力は努力した人に、きちんと納得させることができるほどの人生を経験させてくれると思っているのである。

                                     2015.2.25    佐々木利夫


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努力は報われる