人はこんなことにも理不尽さを感じるものなのだろうか。それとも、現代社会がそうした思いを許容するように変わってきたのだろうか。それとも人の特定場面に対する沸点が低くなってきたのだろうか。最近の新聞投稿にこんな意見が載っていて、どこか人の感情の変化を感じてしまったのである。

 「すたすた歩いてエレベーター? 。母と出かけ、ある駅のホームから改札口に下りようとしたときのこと。母は足が悪く、階段の上がり下がりも一苦労です。そこで、エレベーターに乗ろうと杖をつきながらゆっくり歩いてしたところ、会社員風の人たちがその脇をスタスタ通り抜けてエレベーターに乗り込み、満員になって降りて行ってしまいました。エレベーターは、何らかのハンディキャップがある人が優先的に利用できるように設置されているのに、・・・単に自分が楽したいから、エレベーターが必要な人を無視するのでしょう。・・・こうした行為はとても恥ずかしいことなのだ、ということをいろいろな場で訴える必要があると思います」(2015.3.31 朝日新聞 声 神奈川県主婦36歳)

 「先にエレベーターに乗せてくれるような親切な人がいて欲しい」と思う気持ちが分らないではない。でもこの投稿者はそうした思いを超えて、先に乗ったことを「恥ずかしい行為」なのだとまで思っているのである。恐らくその背景には、「杖をついている人には順番を譲るのが人として当然だ」とする思い、更には「そうすることが弱者への気遣いとして当然のことだ」とする思いがあるのではないだろうか。

 投稿者の思いが、たとえば「並んでエレペーターを待っていたのに後から来た人に割り込まれた」、というような怒りからきているなら分らないではない。でも投書内容を見る限り、私には単に「健常者が杖をついた人を追い越してエレベーターに乗り込んだ」に過ぎないのではないかと思えるのである。そうした行為がどうして恥ずかしく間違いだと、投稿者は嘆くのだろうか。

 母親に付き添っていたであろう投稿者が、エレベーターの利用に当たって特に何かの意思表示(急いでいるので先に乗せて欲しい、など)をしていたのならまだしも、歩いている人を追い越したことがどうして「恥ずかしい行為」、になるのだろうか。

 そのことよりも私には、「エレベーターの目的が何らかのハンディキャップがある人の優先利用のためにある」とする投稿者の考えが、どうにも理解できないでいるのである。むしろ投稿者はそう思い込むことで、自らが抱いている「障害者を追い抜くという行動がそもそも許されない」とする思いを正当化しようとしているのではないかと思っているのである。つまり、「杖老人を追い抜いて先にエレベーターに乗り込んだ人」をどうしても悪人にしたがっているのではないかと思えてならないのである。

 杖をつきながらのゆっくりした歩きでの利用だろうから、エレベータに限らず買い物や乗り物の利用など色々な場面で「健常者よりも動作が遅れ、時間がかかる」という現象は随所で見られることではないだろうか。それとも投稿者は「障害者でも健常者と同等の行動ができるようにサポートするのが人としての常であるべきだ」と、思い込んでいるのだろうか。

 ところでもう一つここに、私にはこの投稿者が犯されているのではないかと思われる現代病の症状を見ることができる。それはこの投稿者の「待つこと」に対する耐性が、著しく乏しくなっているのではないかということである。「待つこと」そのものは、私たちが過ごしてきた人生の中で、それほど珍しいことではなかった。昼食の食堂、色々な興行への入場などなど、自分の順番を並んで待つという経験は、日常的に良くあることだったからである。

 もちろん待つことが楽しいというわけではない。どちらかというと私も苦手である。レジの行列に並ぶ、電車を待つなど、無為の時間を過ごすことに対する「待つ」という経験は、楽しいとは思えない。例えば小銭を探して財布をかき回している老婆の姿に、後ろで並んでいる私が多少イライラすることがないとはいえない。

 「待つこと」への短縮が、現代では一種のサービスとして定着してきている。そしてそれに伴って「待つこと」自体に対する耐性が、現代人から少しずつ失われていっているように私には思える。この投書への投稿者の思いもその耐性の欠如にあるのではないだろうか。駅でのエレベーターの利用である。次のエレベーターを利用したところで、例えば乗り継ぎ列車への乗車が遅れるような記載はないから、恐らくそれほど貴重な時間を奪われたようには思えない。次のエレベーターを利用することがそんなに苦痛だったのだろうか。

 待つことへの「耐性の欠如」は、こうした投稿者の思いのような場面だけでなく、大きな事故の誘発にまでつながっているように思える。JR宝塚線(福知山線)の列車事故からこの4月25日で10年になる。死者107人、負傷者562人を出したこの事故は、現在でも被害者や遺族に消えない記憶を植え付けている。事故の原因には色々あるだろうけれど、運転手の列車の遅れを取り戻そうとしたことによる無謀運転も要因の一つだと言われている。

 それは基本的には運転手の過失によるものなのだろうけれど、私にはその背景にこの「待つこと」への耐性の欠如があるように思えてならない。運転手はどうして遅れを取り戻そうとしたのでろえか。国鉄を発祥とするJRの体質が正確な運行時刻の遵守にあり、そう正義感が運転に影響を与えたとする理屈が考えられないではない。だが私には、日常的に乗客が電車の遅れを嫌うこと、遅れるとその苦情が即座に駅へ寄せられること、JRの経営方針としての可能な限り遅れを取り戻すようなプレッシャーが、現場作業員にまで伝わっていたこと、などがあったのではないかと思うのである。

 現代人は待つのが苦手になってきているのである。「待たせる」ことは非難されるのである。「待たせるような行為」は、悪なのである。だからこの投書の投稿者も、「待たせられた」ことに耐えられないのである。そうさせた健常者の行為が、たとえ割り込みや押しのけによるものでなくとも「悪」なのである。

 携帯電話は「待たずにつながる」のが当たり前なのである。固定電話の時代は、つながらないのは電話をかけた方、つまり自分の責任であり、たとえ用件を伝え終えるまで待たなければならないのは電話をかけた側の責任であったのである。待つことは電話した方の自己責任であった。

 だが今はちがう。たとえその通話が「どうでもいいような用件」だろうが、「いま何してる」程度の軽いメールであったにしても、「待たせる」ことは悪なのである。つながることが当たり前になってしまったのだから、受信ボタンを無視している相手が悪者になってしまったのである。

 待つことが当たり前だった病院の受診や理美容の順番などは、今や事前に「時間予約」をしておくことが当然になってしまった。また、複数の窓口がある場合では窓口ごとに行列を作るのではなく、全体として待ち行列を一列にするようになった。それによって来客の個別の都合による窓口の所要時間のランダム化を吸収し、窓口の違いによる待ち時間の不公平をなくするようにしている。

 人はいつしか、「待つこと」に対して許さない、そして許せない、ようになってしまい、現代では「待たせることが悪だ」とすら思い込むようになってしまっている。

 それでもなお私は、この投稿者の言うような「杖をついた人を追い越してエレベーターやエスカレーターや信号を渡るような行為」を、「恥ずかしい行為」だとは思えないでいるのである。たとえ足が痛いことで歩行がゆっくりになってしまい、若者はもちろん私よりも高齢であるように思える人からも、どんどん追い抜かれていく現象を経験しつつもである。「どうぞお先に・・・」、そんな気持ちで追い越した人の背中を眺めることはあっても、決して「俺を追い越すことは、足の悪い老人をいたわる気持ちに欠けた、非常識で恥ずかしいことだ」などと思うことはないのである。


                                     2015.4.29    佐々木利夫


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エレベーターの順番