フードバンクとは、品質にはなんら問題がないにもかかわらず、包装に傷がついたり形が歪んだりなどで商品としての流通が難しい食品や、家庭で未消費のまま眠っている食品などを活用しようとするシステムである。こうした状態、つまり「食べられる」にもかかわらず品質以外の原因のため流通から阻害されている食料品を、飢えている人たちに無償で配給しようとするものである。

 こうした運動はアメリカが発祥らしく、日本には最近普及してきたようである。こうした運動が私たちの耳にも入ってくるということは、毎日の食料にも欠けるような生活を送っている世帯が、世の中には思っている以上に存在していることを、逆に証明していることでもあろう。いわゆる流通の過程から見るなら、これまで「食品ロス」として排除されていたものを再活用しようとする運動である。

 きちんとした冷蔵設備などがないため生鮮食品にまでその範囲は広まっていないようだが、食べ物の無駄なくすること、そして食料品にもこと欠いている人々に手を差し出すということとが結びついたシステムだということができるだろう。

 こうした運動が不自然だと言いたいのではない。無駄だと言いたいのでもない。ましてやそうした運動が、恩恵を受ける人々の心理に良くない影響を与えているのではないか、などと言いたいのでもない。ただ、どことなくこうしたシステムの存在そのものが、現代における人間社会の危うさを示しているように感じられてならなかったのである。

 それが物乞いに対する恵みにしろ、はたまた乞食(こつじき)修行の僧侶に対するお布施にしろ、他者に金や物を与える行為は昔から存在していた。そうした行為を私たちは、言葉はともかく互助・共助として理解してきたはずである。

 それはまさに「おいしいもののおすそ分け」につながりものであり、思いやりとか優しさという意識につながるものであったと思う。

 にもかかわらず、それが「おすそ分け」の範疇を超えて「飢餓」と結びつく状態にまで延長してしまうのは、間違いではないだろうか。それは「思いやりへの理解」という範囲を超えて、社会の間違いにまで及んでいるように思う。

 そして他方に「飽食」がある。飽食とは単なる満腹状態を言うのではない。満腹であることを超えて、食べきれない食品を捨てることまでをも含んでいるのである。私たちは社会のあらゆる場所で、食べられるにもかかわら捨てられている状況を知っている。コンビニ、学校給食、ホテルの宴会などなど、家庭も含めて人々は食べ物を「余し、捨てている」のである。

 こうした「食べられるものを捨てる」というアンバランスは、例えば捨てられる食品を家畜の餌や堆肥として利用するというような再利用の限度を超えて、ゴミとして焼却されるまでになっている。もちろん満腹やひもじさの程度や状況が、環境や貧富の差などによって人により偏っているであろうことは否定できない。

 それでも「今晩食べる米がないこと」や「朝ごはんが食べられないのは当たり前」というような家庭の存在を、社会は許してはいけないのではないだろうか。そうした偏りを埋める役目をフードバンクのような組織に委ねている現状そのものが、私には一種の社会の病弊になっているように思えてならない。

 最近、日本におけるフードバンクの主催者に関するテレビ報道を見た。配給する世帯ごとに小さなダンボールに食品を入れて配達するのだそうである。小さな子供のいる家庭には僅かにしろお菓子を上に乗せて喜んでもらえるようにしたり、老人の家庭には柔らかいものに配慮するなど、相手の生活に気を遣いながら詰め込んでいるのだそうである。

 私はそうした気遣いに少し腹がたったのである。そうした荷物詰めに対する気配りにではない。そうした行為をフードバンクという行動に委ねていることについてである。

 政治は確かに弱者のためにだけ存在するのではない。企業の国際競争力を援助したり、自国の防衛のための装備を整えたりすることは当然のことかも知れない。だが、「国を維持し、発展させる」という大義名分が余りにも前面に出されてしまって、弱い者がそうした陰で四捨五入されてしまうような社会は、やはりどこか間違っているように思うのである。

 恐らく社会は勝者から成り立っているのかも知れない。税金も株価も、もしかしたらこうしたフードバンクと呼ばれるような善意の行動そのものだって、勝者が存在してこその成果なのかも知れない。だからそうした社会の中で、力なき弱者が切り捨てられていくのは、当たり前のことなのかも知れない。

 それでもそれを私たちは当たり前と感じてはいけないのではないか、勝者と同じように弱者もまた社会を構成する一員として理解すべきなのではないか、いやいやそうした社会こそが「豊かな社会そのものの姿」なのではないか、そんなふうに思ったのである。

 多様性こそが社会のありうべき姿だと多くの人が言っているけれど、食べられない現実を多様性という範疇に含めてはいけないと思う。どこまでを多様性の範囲として許容すべきかは難しいとは思うけれど、ある程度の安定と安心はを基礎とした多様性こそが望まれているのではないだろうか。

 *:新聞記事である。
 「ご飯、サラダ油、しょうゆ・・・これだけが朝ごはんだった」、「街で配られているテッシュペーハーの中には甘いのがあるんだよ。塩振って噛むの・・・」、長女(9歳)、次女(8歳)の話である(2015.12.20、朝日新聞)。「女性は自分は食べずに長男(6)と次男(2)に食バン一枚を半分ずつ食べさせ、夜もご飯と砂糖だけだ。・・・春や夏はツクシやタンポポを摘んで食べた」(12.21朝日新聞)。フードバンクに任せるだけですむ話だろうか。


                                2015.12.19(21日追記)    佐々木利夫


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