最近新聞で、犬の子育てをテーマにした映画を紹介する記事を読んだ。人も及ばないような母犬と子犬の接触に、その記事は母性愛のような表現をしていた。母性愛の本質について私は特に知っているわけではない。母性愛が人間特有の精神作用なのか、それとも動物とも共通する感情なのか、それとも人間と動物とで違うのか、どこがどう違うのかについての知識も皆無である。ともあれ新聞はこんな風に映画の内容を紹介していた。

 「ひまわりと子犬の7日間。 ある日、保健所に母犬と生まれて間もない子犬たちが保護される。保健所の収容期間は7日間。命懸けでわが子を守ろうとする母犬の姿に、職員は母子犬の命を守ろうと、新しい飼い主探しに尽力する」(2015.3.8、朝日新聞、映画紹介)

 人間にだって「幼児虐待」や「育児放棄」が多く見られるから、子育てを「本能的なものだ」と断ずることは、もしかしたら間違っているのかも知れないと常々思っていた。そうした思いが突破口になって、動物にだって同じように「育児放棄」みたいな例があってもいいのではないかと思ったのである。そして現実にそうした事例がそれほど珍しいことではないことが分ってきた。

 子孫を残すことは種としての宿命である。むしろ「種を残す」ことが、そのまま「種」であることの本質であると言ってもいいだろう。仮に「種を残せない生物」が突然変異などで発生したとしても、その生物は一代限りで消滅してしまうだろう。仮にその生物が化石として後世代に残ったとしても、少なくとも「種」になることはない。

 もちろん「種を残す手段」には色々な方法があるだろう。生物は何世代も生き残るための手段として、様々なシステムを作り出してきた。もっとも単純なのは、「我が身を分裂させ複製して生き抜くこと」である。つまり、一種の「不死」の選択である。

 だが地球上の多くの種は、自らの死と引き換えに「雌雄の生殖によって子孫を残す方法」を選んだ。そしてその多くは植物や昆虫、そして魚類などのように「多数の子孫」を自然界にばらまき、その成育は自然環境に任せることにした。

 ところが「種」が発達するにしたがい、例えば哺乳類や人類などのように「未熟な状態で生んで親の力で育てる」ことのほうが、「種の生き残りのためにはより良い方法である」と理解するようになってきた。それが「子育て」の原点になっているのであろう。育児を選んだことは、その子孫が自力で次の世代を生むようになるまで親が保護することが、「種の存続」から見てよりベターな選択であることを認識したことの結果でもあろう。

 ただそうした育児のイメージを、ひっくるめて「母性愛」みたいな思いの中に閉じ込めてしまうのが、どこか不自然であるような気がするのである。人が得てして育児の中に「母性愛」を持ち込みたがることを否定しない。そしてそこに「愛」と呼ぶような情感を感じているだろうことも否定はしない。

 だがそれが本当に犬・猫の子育ての場面にも同じように当てはまると理解していいのだろうか。確かに母犬は、場合によっては命懸けで我が子を守るような行動する。卵から孵った雛を、樹上の母ガラスが近づくすべての生物を攻撃することで守ろうとする行為を私たちはよく目にする。だがそれを「母性愛」だの「父性愛」という表現をしてもいいのだろうか。本当にそうした行為は「愛」により裏付けられているのだろうか。

 もちろん私は「愛」の何たるかを知っているわけではない。それでも他人の子とわが子では、それぞれ異なった感情を抱くであろうことは分る。それが「愛」なのだと言われてしまうと反論する余地はないし、そうした対応は他の生物においても共通なような気がする。だとするなら、そうした共通性をとらえてそれを「愛と呼ぶ」とするなら、反論する余地はない。

 だがテレビなどで動物の「子離れ」の放送を見ていると、私にはそうした「子育て」の行動が「愛」によるものだとは思えなくなってくるのである。もちろん「命懸けで子どもを育て守る」行為を認めないというわけではない。だが時に突き放し、時に攻撃し、時に自分の縄張りから追い払おうとする行為が、「愛」からきているとはとても思えないのである。そうした行為は「独立を促すための変形した愛の姿」なのだと人は言うかも知れない。「子どもを自立させる」、そのことのために「親は涙を飲んで子を突き放すのだ」と言うかも知れない。

 だがテレビなどを見ていると、私にはむしろ「育児期間の経過に伴って、わが子をわが子とみなさないルールが存在しているのではないか」と思われるような現象が見えてくるのである。数頭でグループをつくる生物がいる。だがそのグループに属する生物にとって他者の存在は、仮にそれが同種の生物であったとしても基本的にはグループの食料の確保を犯す敵である。我が身を存続させていくためには仮にわが子であっても、その縄張りから追い払い、時には倒すことさえ必要となる。

 そうしたとき子離れの手段であるわが子の追い出しを、「愛が変化した」のだと考えていいのだろうか。むしろ「そこに愛はない」と考えたほうがいいのではないだろうか。いやいやむしろ、それまでの子育ては「愛」によるものではなく、単に「一定の期間を限って、種を保存するために設けられた肉体的なシステムである」と割り切ってしまったほうがいいのではないだろうか。

 そうしたシステムが遺伝的にどう仕組まれているのか、ホルモンなどがどう関わっているのか私には説明できない。ただ、母乳が出産に伴って自動的に分泌されるような肉体的システムが、子育てに関しても同じように機能しているように思えてならないのである。

 もし「母性愛」というものが種を構成する因子として、生物の体内に組み込まれているのだとするなら、「わが子の追い払い」という現象はどう説明すればいいのだろうか。私はそこに「愛」という観念を持ち込むよりは、「わが子が自立できるまでに生育したこと」を引き金として、そして「母親が次の妊娠出産に向けて体調の準備が整ったこと」の信号が体内から送られ、次の生殖のためにその指示にしたがって「わが子を追い出す」という行動に出ると考えたほうが、種の維持として合理的なような気がするのである。

 もちろん、種としての人も同様であっただろう。ただ、人は「結婚」であるとか「一夫一婦制」、更には家族による扶養制度などの複雑な社会的システムを作り上げてきた。そのシステムは、違反する者に対する様々な制裁を伴うものとなっているが、それなりに一つの成功をもたらしたといえる。そしてそうした思いは、単に肉体的な制裁のみに止まらず、精神的な「賞賛」、「愛情」などへと昇華させることになった。だがそれは飽くまでも「人間」についてである。

 だから私は、人間の行動に名づけられた「愛情」というような表現を、単に行動が似ているからと言って犬・猫やその他多数の動物にも認めることに、どこかちぐはぐな思いを抱いてしまうのである。むしろそうした行動は、「愛ではない」、「愛と呼んではいけない」、「愛と呼ぶのは間違いだ」とすら思うようになっているのである。


                                     2015.5.8    佐々木利夫


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