この言葉は清少納言の書いた古典「枕草子」の冒頭の一節である。春は曙・・・、夏は夜・・・、秋は夕暮れ・・・、そして冬はつとめて(早朝の意)・・・と、日本の四季の変化とその風情を簡潔に私たちに伝えてくれている。
 それぞれがその季節の代表例としてふさわしいかどうかについては個人差があるだろうけれど、三月も中旬を過ぎてまさに「春はあけぼの」を実感している私である。今日は春分の日の当日だから、今まさに春の最盛期である。

 私の一日は概ね、毎朝5時半から6時頃にかけて目を覚ますところから始まる。本当は毎日が日曜日で昼寝つきの優雅な事務所生活を送っているので、多少睡眠時間に変化があったところで特段気にすることはない。それはつまり就寝時の読書、更にはエッセイの下書きや思いつきメモの書き散らしなどに時間をとられて、眠るのが多少遅くなったとしても気にならないということでもある。

 ただ、朝はゆっくり新聞を読んで7時からのテレビニュースを見る、そして洗面やらNHKの連ドラを見ながら朝食をとる、出勤の支度をしてJRに乗り込み9時までには事務所に着きたいと思っていることなどを考えると、起床時間だけはあまり変化させないのが習慣になっている。

 この通勤パターンは年を通してほとんど変化しないことと、今回のタイトルの「春はあけぼの」とは直接の関係はない。関係ないにもかかわらず、夏や秋や冬はさておき「春の夜明け」だけがどこか気になるのである。そしてその気になることそのことが逆に気になってしまうのである。

 四季の熟語が春夏秋冬と「春」の文字から始まり、元旦のあいさつを冬ではなく初春と呼びかけたりするのは、私たちの心に「春」だけが他の季節とは異なる特別な感情を持たせているからなのではないだろうか。それは、「冬来たりなば春遠からじ」と、冬の到来の中に春を心待ちする思いを込めることにも通じるものがある。

 ところで、「春=あけぽの」の連想は私の思いこみみたいなものである。これまで1000本を超える気ままなエッセイを書いてきたけれど、その中にこの方程式は恐らく何度も出てきたことだろう。冬の寒さから少し離れてきたように感じる季節と、起床時刻の午前6時前後、そして真っ暗な室内から見るベランダ越しの空がいつの間にか白んでいることに気づく嬉しさと驚き、そうした時にこの方程式が自然に浮かんでくるのである。つまり私の中でこの方程式は、夜明けの白みと結びついた一種の熟語のようになっているのである。

 こうした「春=あけぼの」にこだわる私の心であるとか、生活習慣がNHK朝ドラや定時の事務所通勤などといった同一パターンに決まっている私の日常は、言ってみれば私の中で長く培われた習性であり、別の言い方をするならマンネリそのものである。だがそうした思いの反面、「マンネリであることのどこが悪いんだ」みたいな気持ちに駆られることもある。

 私たちは、どちらかというとマンネリであることを否定的なイメージで捉えている。だが、マンネリは本当に人として望ましくないことなのだろうか。マンネリはどんな場合も悪であり、変化することや変化し続けることこそが常に善なのだと、人はいつから思いこむようになってきたのだろうか。

 私たちは人生の多くを、そして仕事の多くを、さらに親から子、子から孫へと続く生活や歴史の多くを、マンネリの中に押し込めて過ごしてきたのではないだろうか。そして時にそれを伝統と呼び、時にそれを習慣・慣習であるとか、しきたりなどと呼んで、逆にマンネリであることを頑なに守ってきたのではないだろうか。

 恐らくそうしたマンネリであることの基本は安定であり安心であろう。それは安易な妥協策をさぐった結果なのではなく、ぎりぎりまで突き詰めた最後の手段としての安定だったのではないだろうか。試行錯誤を繰り返し、多くの失敗や混乱を経た上で見つけ出した大切な知恵だったのではないだろうか。

 もちろんそうした選択が究極の答になっているとは思わない。時代や環境や人々の思いの変化などによって、恐らく選択結果に対する評価も異なってくるだろうし、次善もしくは後順位と思われていた策と入れ替わることだってあるだろう。だから一つの決定が「その決定を固持しその変化を禁止する」方向へと固定化されてしまうことには問題がある。

 そうした固定化の弊害を避ける意味で、人はいわゆるマンネリ批判を我が身に課してきたのかも知れない。だが私たちの生活や歴史の多くに、マンネリであることで得られた安心感がどれほど定着していることだろう。

 マンネリとはマンネリズムの略であり、様式や態度への固執の意味で使われることが多い。だが本体は英語の「マナー」、つまり行儀や作法や礼儀などの決まりきった癖や作風を意味したのだと聞く。だとするならそれは、逆に人が社会生活(他者との協同など)を営んでいく上でのルールでもあったはずである。

 それは伝統や習慣や礼儀のみならず、もしかしたら「悪を憎む思い」や「法律を守ろうとする無意識の思い」であるとか、場合によっては「お涙ちょうだい式の安易なドラマに涙を流すような心情なども含めて、私たちが無意識に「そういうもんだ」と思っているほとんどが、もしかしたらマンネリからきているのかも知れないのである。

 つまりはもしかしたら「私たちが日本人だからそうなんだ」とか、「人間とはそもそもそういうものなのだ」と思っていること自体が、最大のマンネリなのかも知れないのである。もしそうなら、マンネリであることに恥じる思いなど、どこにあるというのだろうか。

 決まりきったパターンから脱出せよという主張が、間違いだなどとは思わない。ただそれは対象とされている習慣にまだ改良や改善の余地が残っていて、しかもそうした変化が更なるよりよい習慣を形成するという意味での承認だと思うのである。だから決してその習慣そのものが「悪だ」という意味ではない。マンネリであるとの主張はときに、その習慣を否定することのみに終始し、私たちや私たちの先達が長い時間をかけて培ってきた安心や安全を損なってしまうことに気づかないような気がする。

 私が高校受験の勉強をしている頃のことのように記憶しているから、だとすれば今から60年も前に記憶になるけれど、こんな俳句があったのをなぜか覚えている。

 「自分の首を浮かしていい湯である」。「自分の茶碗がある家にもどっている」。確か、荻原正泉水の作だと思っているが、旅から自宅へ戻ったときのゆったりした気持ちが素直に伝わってくる。はっきりと分るような季語も見当たらないので、これを素直に俳句と呼んでいいのかどうか分らない。ただ、いわゆる自由律俳句ならでわの味わいがそこにあり、それが私の感性を刺激して記憶に残したのかも知れない。

 こうしたゆったり感はまさしくマンネリの良さなのではないかと思っている。変化のある旅行から、自宅での決まった習慣に浸かったときの安心の世界である。それが日常である。いつもと同じく、何も考えないままで手足が動いていく当たり前の生活がそこにある。

 私たちはこうしたマンネリの世界を、こよなく愛してきたのではないだろうか。変化のない生活を、変化のないことのゆえに否定するよりも、その中にゆったりと埋没できる人生を、私たちは大切にしてきたのではないだろうか。そして考えてみると、定番とされるような変化のない生活、つまりはマンネリを、ほとんどの場合で私たちは承認しているように思えるのである。そしてその背景はまさに安心であり、安全な世界だからである。そして更に加えるなら、75歳の老人にとってこうした安心とか安全とかは、何ものにも代えがたい財産になっているのである。


                                     2015.3.21    佐々木利夫


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春はあけぼの