現在放送しているNHKテレビの朝ドラは「まれ」である。退職してから16年になるが、毎朝この朝ドラを見終えてから事務所へと向かう習慣がついていて、ドラマを楽しむというよりは時計代わりに利用しているのが現実である。

 それはともかく、現在放送されているドラマは菓子職人(パテシェ)を目指す少女が主人公である。彼女を軸に優しくてしっかり者の母、夢ばかり追って成功しない父、漆職人を目指す恋人、能登の小さな街のおせっかいで親身な住民などが物語りを紡いでいく。

 朝ドラらくしそれほど深刻な話題もなく、概ね一週でめでたしめでたしの小完結が得られることもあって、見るほうとしても気軽である。それはそれでいいのだし、そのことにとやかく言うことはない。だが、先週の父親を巡る展開には、どこか気になってしまったのである。

 父は離婚同然の裸一貫で能登から横浜へ出て、インターネット関連の事業を起業する。うまく成功したかに見えるのだが、ある日保証人が失脚し銀行から受けていた融資全額の弁済を迫られて、資金繰りがつかないまま倒産する。そして事務所の机から事務機器まで取り上げられ、自己破産という形で清算することになる。

 こうした展開をどうのこうのと言いたいのではない。ドラマはその娘である主人公のパテシェへの夢を軸に語られていくのだから、父の倒産は物語の基本とはまるで無関係な話である。だから、この話は一種の「添え物」であり、一過性のどうでもいいサブストーリーなのかも知れない。

 でもどうにも気になるのである。父親はまたしても敗れた夢に自己嫌悪の毎日である。それはいい。だが、敗れた事業の後始末については、せいせいしているのである。つまり、自己破産したことで「またしても夢が破れた」という精神的な後悔はともかく、後始末の心配は一切済んでしまったこととしてドラマは進んでいくのである。

 それはそうだ。自己破産したことによって、持ち家などの財産を手放す、弁護士などの職につけない、市町村役場の破産者名簿に登載される、数年間は銀行などからの融資が受けられないなどのペナルティはあるにしても、少なくとも自己破産時の債務に関しては整理されたことになるからである。ドラマでは5000万円の融資の弁済不能であったが、自己破産によって、自身や会社の資産や債権などがなくなったかもしれないが借金もまた帳消しにされたからである。つまり、「せいせいした」気持ちになれることは、少なくともこれまでのような借金を返すという苦労はしなくてもよくなった(弁済しなくてもいい)ことを示している。

 でも考えても見て欲しい。借りた側は借金の棒引きで肩の荷がすっかり下りたかも知れない。だがもう一方には、貸した側が存在していたという厳とした事実を忘れてはならないと思うのである。もちろん「ない袖は触れない」ことを裁判所が認定し、国が公的にその者の借金を帳消しにしてしまったのだから、法的にその者の借金がなくなったことに違いはない。

 だが反面、国はこの宣告によって貸した側の債権も同じく帳消しにしてしまったのである。もちろん貸した側が、悪逆非道なサラ金業者や暴力団金融だった場合もあるだろう。またそれほどでないにしても、貸し金が帳消しになったところで、痛くも痒くもないほどの金持ちだった場合だってあるだろう。

 サラ金による被害者がともすればクローズアップされるこの頃である。自己破産は一面、そうした悪徳金融業者を懲らしめる正義の鉄槌になっている場合もあるだろう。だが、そうでない「当たり前の債権者」だって数多くいるはずである。そうした債権者を区別することなく、自己破産は単に債権と債務の額、そして債務者の財産や支払能力だけを判断して決定される。債権者がどんなに善良で、その回収不能によってどんな迷惑を被ろうとも、その債権者を保護する機能を自己破産システムは有していない。まさに「ない袖は触れない」だけがまかり通るシステムになっているのである。

 ドラマは続く。自己嫌悪に陥ってふさぎこむ父親に向かって、主人公の「まれ」はこんな風に慰めの声をかける。「元気を出して、また一から始めよう」。確かにそうだ。自己破産で借金がゼロになったのだから、そこからのスタートはまさに「一から」であることに違いはない。

 でも私にはスタートの始点を「ゼロ」からとする考えにはついていけないのである。借りることの意味、弁済できなかったことの意味、返せないことでどれだけ債権者に迷惑をかけたか、場合によっては弁済できないことが相手の死活につながる可能性だってあるかも知れないことへの思いなどが、このドラマからは少しも伝わってこないからである。

 借金しました。返せなくなりました。自己破産で帳消しにしました。これで私は「ゼロ」からのスタートになります。そんな安易な思いが、この自己破産というシステムには色濃く残されているように感じられてならない。法的に帳消しにされた借金であっても、正義の名の下に今後も弁済を継続すべきだなどと言いたいのではない。ただ、弁済できなかったことに対して、あたかも己の利益だけのために活用したかのように思えるこの自己破産というシステムが、あまりにも偏った方向へと人の金銭への思いを誘導していっているのではないか、そんな風に感じられてならないのである。

 少なくとも借金から開放されてホッとしている主人公の父の気持ちはわかる。だがその気持ちは、自己破産によって迷惑をかけた多くの人の支えによる結果によるものなのだという現実を、ドラマのどこかで表して欲しかったと思うのである。そうでないと、貸した金を一方的に帳消しにされてしまった、貸した側の口惜しさや憤りの持って行き場が、まるでなくなってしまうように思えてならないからである。

 世の中にはウイン・ウイン(対立する互いが勝者となること)の場面がないとは言わないけれど、ゼロサム(勝者の利益と敗者の損失の合計は必ずゼロになること)になる場合のほうが、ずっとずっと多いことを私たちは理解しておく必要があるのではないだろうか。


                                    2015.7.30    佐々木利夫


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自己破産の気軽さ