最近「日本人はなぜ箸を使うか」(一色八郎著、大月書店)を読んだ。長く日本人の箸利用について研究してきたであろう著者の思いが窺われ、興味深く読ませてもらった。また箸が手の文化であり、日本人の食生活といかに深く結びついているかについても興味をそそられるものがあった。

 だが著者の抱いている「箸への思い」そのものが、どこか気になってしまったのである。著者が感じている箸の歴史や日本人の生活へと浸透した過程、そして箸使いに関する地方による違いなどに対する解釈にも驚かされるものがあっれた。しかし全編を通じて、著者の箸に対する思いの背景がどこか偏っていように思えてならなかったのである。そうした偏りは、結局一つ一つの箸への習慣や定着などに関する解釈などに影響を与えているのではないかと思ったからである。つまり、理解の背景が異なると、それに伴って意見や見解などもまた異なってくるのではないかということである。

 それは著者の抱く「日本人観」、「日本人の生活観」と、それらに関わる「箸」との結びつきについて、余りにも日本の習俗を美化し過ぎているのではないかとの疑問が生じたからである。なぜそう思ったのかというと、彼は著書の中でこんな風に日本人と箸とを結び付けていたからである。

 「遊牧、狩猟民族は、広い空間を走りまわらなければ、水も食料も得られず、彼らにとって『足』こそ生活の基盤であり、足が強靭な民族に育っていくのは当然であり、これに対して、稲作農耕民族は、一定の場所に定着して生活せねばならないので、手をよく働かす『手』の民族となったのです。手の民族は手が器用であり、足の民族は健脚ですが手は不器用です。手が器用か不器用かは、それぞれの民族の文化を左右し、現在に至っています」(前掲書P212)。

 「遊牧、狩猟民族が健脚になる」という理屈が、まるで分らないと言うのではない。でもそうした民族の中で、実際に狩猟に従事するのがどんな世代になるのかの検証がまるでなされていないのが気になった。恐らく子どもや高齢者は狩猟に従事しないだろうし、女性は育児・家事に専念するだろうから、生活と「足」との関係はそれほど多くないように思える。ましてや「健脚」を基本とする形質が、民族全体の遺伝情報として後世代に引き継がれるほど強烈な刺激になるとはどうしても思えないのである。

 また、稲作農耕民族がどうして「手の民族」になるのかについて、著者がまるで説明していないのは更に気になる。稲作で手を使用する割合と狩猟で手を使用する割合とが、果たして遺伝的形質に変化を及ぼすほどの違いとなって表れるものだろうか。手の器用さを支配するほど違ってくるのだろうか。

 さらに著者はこんなふうに箸の効用を言う。「・・・手を使うということは、道具を使うということだけでなく、脳(を)さらに発達させていくのです。日本人は欧米人に比べて『手先が器用だ、頭が良い』などと言われることがありますが、それは、この素朴な箸と深く関わっている・・・」(P195)

 こんな理屈を立証なしに言ってしまっていいのだろうか。これではまるで「自己陶酔」の世界である。私としてはこんな理屈は間違いだとすら思ってしまうのである。「日本人は頭がいい」、そうした思いが心地いいものであることは分る。でも日本人が欧米人よりも頭がいいなどと、著者はどうして思いこんでしまったのだろう。ましてやそのことを「箸の使用」に結び付けてしまうなんぞは、まさに言語道断だとすら私には思える。

 こうした著者の考えは次第に「箸使いの乱れ」へと広がっていく。つまり「箸の持ち方に対する乱れ・下手・間違い」の指摘に始まり、迷い箸(料理を探して箸をウロウロさせること)や受け箸(箸を持ったままお変わりする)などと言ったマナー違反とされている数多の日本人の食習慣へのこだわりである。

 「・・・箸などどんな持ち方でも、本人が食べやすければそれでよいと思っていませんか。・・・その食べやすいということは、箸を上手に使っているということなので、箸は正しく持たなければ、そのせっかくの多彩機能もフルに発揮することはできないのです」(P135)。

 まさに伝統や習慣に反する方向への変化は、すべて「悪しき使い方」であると著者は思っているようである。長年箸について熱心に研究してきたであろう著者の思いとして分らないではないけれど、「変化を認めない」とする思いに固執することは、余りにも頑なに過ぎるのではないだろうか。

 そのほかにもいくつか気になる点がある。例えば「弁当」に対する思いである。「(外食屋など)の弁当は、外見は美しいものかも知れませんが、お母さんの心はなく、『心の栄養失調弁当』といってよいでしょう。これに反して、味や形は少々悪くても、お母さんの手づくり弁当には、心の栄養がいっぱい入っています」(P217)。

 言ってることが分らないというのではない。ただ弁当がすべて親の愛のあらわれなのだとは、必ずしも言えないのではないだろうか。単なる習慣で作ったり、給食がないなどの理由で義務感で手作りする場合だってあるだろう。また逆にブログなどに毎日写真投稿されているような、とても美しくまた美味しそうにできている弁当だってあるだろう。しかもそれは弁当の話であって箸とは無関係である。弁当を箸で食うことは多いかも知れないけれど、それは作られた弁当の形質から派生してくるのであって、決して弁当そのものが箸の効用を示すものではないと思うのである。

 またサリドマイドで障害を受けアザラシ症で手の指が使えない少女が、足の指を使って健常者でも叶わないような箸使いをしていることを称賛する記述もある(P207〜)。話そのものに感動はするけれど、それが日本人の箸の文化とどういう関係にあるのかについては疑問なしとしない。

 気になる点はほかにもあるけれど、私が思ったのは、著者は余りにも「箸が正義であること」に思い入れを持ちすぎているということである。「箸を使うこと」があたかも日本人の最大の美徳であり、日本人の素晴らしい知性の発祥、道徳の基本であるかのような錯覚に陥っている。そしてそれはそのまま、ナイフやフォークで食事をする民族や手づかみで食事するような民族と、日本人とは格が異なるのだという優越感にまみれた意識につながっているように思えてならないのである。


                                     2015.5.30    佐々木利夫


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箸の文化