平和であることは世界の誰もが望んでいることだから、もしかしたらその意味だって共通の思いとしてきちんと確立されているのだろうと思っていた。ただ私の中ではこれまで何度も平和について書いてきたにもかかわらず、きちんとした答が出せていないことに気づいていた。逆説的に「戦争のない状態」を「平和」と名づけてみようかと思ったこともあったのだが、結局一種の言葉遊びにしか過ぎないのではないかとのジレンマは拭えなかった。

 しかしながら「平和」の意味を単純に「人が死なないこと」の別称ではないだろうかとする考えには、それほど抵抗感がないような気がしている。もちろんここにおける「人の死」に、病気であるとか事故や寿命などによる死が除かれていることは当然のことである。戦争を国と国による暴力を伴う争いだとの定義を考えてもいいのだが、仮にそこに「人の死」が介在しなかったとしたなら、定義としてはどうも弱いものになるような気がしてならない。

 人の死の意味が数によって変わってくるとは決して思わない。一人の死と、千人の死に違いがあるなどとは思わないし、思ってもいけないのでないかと感じてもいる。だが死を数によって評価することにも、あながち無視できないものがあるのではないかとの思いが私の中にはある。戦死者を数えることで、戦争の悲惨さや残酷さを示すことができるとの考えが、常に正しいとは思わない。しかし「一人の死に対する悲しみ」が数千人分、数万人分集まるという事実にもまた、無視できないものがあるように思えるからである。

 だからそうした思いの中に戦争なり平和というものを考えてみるのも、あながち無茶ではないのではないだろうか。私は過去の戦争について専門的に研究してきたことはないし、未来の戦争の姿を予想してみたこともない。だから「戦争による死者数」といったところで、そうした知識は私の乏しい直観による判断とネットで検索したデータ以外に事実上手段を持っていないのが現実である。

 ただこうした思いを抱いた背景には、マスコミなどでこれだけ戦争が話題になり、世界中の人たちが「戦争は悪だ」、「繰り返してはならない」と叫んでいるにもかかわらず、最近はなんとなく戦争で死ぬ人の数が昔と比べて減少してきているのではないかとの思いがあったからであった。

 そして更に直接的には、現在「イスラム国」と呼ばれるテロ集団が邦人二人を誘拐し、ネット動画を通じて一人を殺戮、残る一人をヨルダンに死刑囚として拘束されている同胞との交換を要求している事件があり、世界中の言論が戦争反対一色に彩られていることがあげられる。

 つまりそれは、「戦争反対」を叫ぶ多くの声が、「依然として戦争はなくならない」、「戦争は世界に蔓延している」ことを前提として話をしているように思うからである。そしてそうした事件を伝えたり聞いたりしているマスコミや世論もまた、「世界は戦争に満ちている」ことを前提としたうえで論議しているような気がしてならないのである。そしてそうした考えに私は、「チョット待てよ」と思ったのがこうした平和の意味を考える動機になったのである。

 「チョット待てよ」と思ったからと言って、それは今の時代が平和であるからだと言いたいわけではない。それは私だけの勝手な思いであり、事実かどうかは検証の必要があるだろうけれど、もし仮に人類にとって死を伴う争いが皆無にならないことを前提とするなら、今の時代は「それなりに平和な時代に属している」と呼べるのではないかと思ったのである。

 確かに紛争がテロか戦争かなどの定義はともかく、現代でも争いに伴う人の死は絶えることはない。毎日のメディアには、戦闘に関連した人の死の報道が途切れることなく続いている。だがそれは一つにはインターネットなどによる情報網の拡大によるマスコミの通信手段が発達していることにも要因があるのではないだろうか。そしてそれに伴って私たちが受け取る情報量が飛躍的に増加していることがあげられるのではないだろうか。

 極端に言うなら、狼煙(のろし)でしか遠隔地に情報を伝える手段がなかった時代には、恐らくアフリカやヨーロッパなどで起きた戦争が日本にニュースとして伝えられることなどなかっただろうということである。

 つまり現代は辺境という観念がなくなって、東南アジアの片隅だろうが中国の田舎だろうが、世界中の出来事を私たちはたちどころに知ることができるということである。昔なら知る手段もなく事実上知らなかったであろう事件を、現代では瞬時に、それも場合によっては具体的な映像という形で知ることができるようになったということである。

 だとするなら、「戦争は拡大している」とか「戦争は残酷化している」などとの評価は、もう少し考え直してみる必要があるのではないだろうか。それは単に「ニュースとして伝えられた戦争」が増えたというだけのことにしか過ぎないのであり、「昔なら知らなかったであろう戦争という事実を、現代なら知ることができるようになった」ことと同義ではないかと思うのである。そしてそうした情報は、戦争の絶対数であるとか戦死者数そのものが増加していることの証明には、決してなっていないと思うのである。

 戦争に関する詳しいデータを私は知らない。また、冒頭にも書いたように戦争の定義すらも知らない。だからイラクやイスラムなどの紛争を内乱と呼ぶべきか革命と呼ぶべきか、はたまた戦争と名づけていいのかもまるで分らない。一言で戦争と呼んだところで、私の中ではただある種の組織が他の組織なり自国の権力や他国と武力で争っているという程度の理解でしかない。

 ただ世論の反応を見ていると、そうした紛争をも世界の人たちは戦争に含めていると考えてもいいのではないだろうか。だからこそ世界中の人から「戦争反対」の主張が休むことなく繰り返されているのではないだろうか。
 もし仮に現代が戦争の少ない平和な時代だと多くの人に感じられているのであれば、そのことを表明する人も多いだろうし、戦争が悲惨であり許せないなどと主張することじたいが相対的に目立たなくなってくるような気がしているのである。

 イスラム圏での様々な紛争、2001年のアメリカにおける同時多発テロ、ベトナム戦争やチェチェン紛争、湾岸戦争やクリミア半島をめぐるウクライナとロシアと紛争などなど、争いは地上から消えることはない。だから戦争反対への思いを間違いだとは思わない。

 でも仮に戦争の悲惨さを戦死者数で考えることが許されるなら、今から50数年前のベトナム戦争ですら120万人とも170万人とも言われているにもかかわらず、最近の戦闘などによる死者数は数十人、数百人〜数万人を単位として数えられているに過ぎないことをどう評価すればいいのだろうか。

 戦死者数というのは実際にはとても把握が難しいことは分る。戦闘員の死のみでなく民間人の死者をも含むのだから、戦闘や爆撃による死以外に負傷による死、自決による死、伝染病や飢餓による死などが複雑に絡み合ってくるだろうからである。

 それを踏まえてもなお最近の戦死者数は桁違いに減ってきているような気がする。日清戦争4万9千人、日露戦争15万8千人、第一次世界大戦3700万人、第二次世界大戦8000万人などなど、人が人を殺すことの悲惨さは際限がない。ホロコーストによるユダヤ人らの殺害は570万〜600万人、太平洋戦争での日本人の死者数189万人、・・・死者数の把握は難しいと言っても、こうした数は私たちの想像を超え絶句させる。

 戦争の悲惨さは死者の数だけで測られるものではないといいつつも、ネットから突きつけられる情報には声もない。だが1990年湾岸戦争での戦死者はアメリカ側300人、イラク側で2万人、2001年9.11の同時多発テロによる犠牲者は3025人などなど、最近の戦死者数は驚くほど減ってきているのではないだろうか。

 だから現代は平和なのだと言いたいのではない。それは戦争の悲惨さを単純に戦死者数で測ることなどできないとする思いからして当然の結論である。ただ、一つの指標として戦争の悲惨さを戦死者数で示すこともできるのではないかとの思いを現代に当てはめるなら、胡乱ではあるけれど「現代はそれなり平和な時代だと呼んでもいいのではないか」とする判断も、あながち無茶ではないような気がしているのである。


                                     2015.1.30    佐々木利夫


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