昆布漁師が出漁できないほどの荒れる海を前に無言で立ちすくんでいる。そしてぽつりと一言。「自然の力には叶いません・・・」。ごく自然なつぶやきでのように聞こえる。灰色の海と空を背景に年老いた漁師の姿がクローズアップされ、それはそのまま一幅の絵になる。

 そうしたテレビでのニュースを見ていて、私はどこか気になったのである。漁師の嘆きが不自然だとか、間違いではないかと思ったのではない。むしろこの映像はごく自然に私の理解の中に入ってきた。それでもなお、素直に納得できないものを感じたのである。

 それは自然に対する理解の仕方というか、対峙する姿、意識に対する姿勢であった。この漁師の頭にある自然観は、「トータルとして変わらない自然」、「揺らぐことのない基本としての自然がそもそも存在しており、ある決められた一定の範囲内でしか変化することのない自然」に限られているのではないかと思ったからである。つまり人間が許容できる範囲内での変化しかしない自然、との思い込みに固まっているのではないかと思ったのである。

 ところが自然は人間の思惑を超えて変化している。それが地球が本質的に持っている変化の範囲内の出来事と考えていいのか、それとも地球上に住んでいる生物(人間)が変化を増幅しているのかは必ずしも分らない。もしかしたら両者が複合している可能性もあるからである。

 ただ最近の地球の気候変化は、人類が引き起こした影響の方が強いように思える。自然は動かない基線として存在していたはずである。にもかかわらず最近は、基線そのものが移動し始めているように思えるのである。この漁師は、自らの嘆きが一過性であることを信じている。その思いに私は違和感を覚えたのである。明日になればまたいつも通りの日常が戻ってくるに違いない、かの漁師はそう信じて荒れている海を眺めているように感じられたからである。

 漁師がそう信じる背景は、恐らく「これまでそうだったから・・・」との思い込みでしかない。明日はきっとのどかな日和がいつも通りに訪れ、肉厚に育った昆布がいつも通り浜に並べられていることだろう、そうした思いが背景にあると思ったのである。それはそうだ。親や祖父の代から昆布を収穫することで生活してきた漁師にとって、いつも通りの明日が巡ってくると信じることこそが己の人生の基盤になっているだろうからである。

 地球温暖化が必ずしも環境破壊の原因ではないとの説を唱える学者もいるそうだから、まるで知識のない私にとって気候変化と二酸化炭素の排出がどこまで関連しているのかをきちんと説明することはできない。ただ、COP(コップ・気候変動枠組条約締約国会議)などの国際会議を通じて、この両者が関連していることは世界の常識になりつつある。

 地球環境の変化は地球の歴史をひもとくならば、恐らく私たちの想像を絶するほど極端なものだったと思う。地球の歴史数億年を振り返るなら、そこには地球全体が赤道直下も含めて氷で埋め尽くされた全球凍結という時代があったことは証明されているし、それより以前の時代には全体が煮えたぎる火山であった時代も経験している。恐竜絶滅の引き金になったといわれる隕石の衝突もあったことだから、そうした変化には想像を絶するほどの幅がある。それでも私のたかだか数十年の経験だけでも、現在が予想もつかないような変化を示していることはすぐ気づくことである。

 確かに変化はマイナス方向のみではない。ライト兄弟が世界で始めて成功した飛行機は、今や火星だの海王星へのロケットにまで進化した。カラーテレビや携帯電話なども私たちの想像を超えるような時代を経験させてくれている。そうした便利さや物の豊富さが幸せの基準としてどこまで妥当するかは難しいことだろう。だがしかし、私たちはそうした中に幸せがあると信じることでこれまで努力してきた。

 だとするならプラス・マイナス=ゼロという評価だってできないではない。プラスを受け取るということは、マイナスも同時に引き受けることなのだと考えることができるからである。私たちはいま携帯電話や原発の便利さという利益の享受に対して、地球温暖化というつけを払わなければならないという場面に直面しているのかも知れない。そして多少マイナスの方が多いとしても便利さには変えられないと、どこかで納得しているのかも知れない。

 それはそれでいいのかも知れない。地球温暖化による環境変化が、場合によっては人類の生存という基本にまで影響を与えるとしても、それはそれで割り切ることは可能である。ただそうした割り切りの仕方の対処には次の二つが大きく考えられ、そのことが私たちを蝕んでいるように思えてしまうのである。その一つが「他者への押し付け」であり、もう一つは「後世代への先送り」である。

 一人の個人がプラスとマイナスの両方を引き受けるのではなく、プラスは私が、そしてマイナスはあなただとという風に分割してしまうことである。そうすることで、少なくとも一方はプラスだけを享受することができることになる。もちろんそうした考えの背景には、マイナスだけを引き受ける者の存在が必然的に必要となることは言うまでもない。そしてマイナスを引き受ける一方が「後世代」とすることも可能なのである。

 そうした思いをどこまで維持できるのか、維持することが正しいのか、人は環境や自然の変化という現実に向かってその選択を迫られているのである。

 私たちは「不可逆」という現象を知っている。何のことはない、元へ戻せないというだけのことである。私たちが経験しているいまの時代は、この不可逆を目の当たりにしている時代でもある。どんなにその弊害が指摘されようとも、いったん発明された携帯電話は、その存在を否定されることはないだろう。車がどんなに人を殺すマシンとして機能していることを立証したとしても、車のない時代に戻ることはないだろう。原発、核爆弾、戦争、いじめ、殺人などなど、人が作り出したものはすべて不可逆なのである。それを超える機能を付加された新しい商品が出てくることはあっても、その機能そのものが「ない時代」へは戻れないのである。

 ただそうした中で、一つだけ救いになるキーワードがある。「ゆっくり」である。私たちは余りにも急ぎすぎた。この歩みをどこかで「ゆっくり」に変えることで、破滅に向かうかも知れない一方通行への変化を私たちは、私たちが生きていくスピートに合わせることが出来ると思うのである。

 自然の変化は基線を中心とした揺らぎではすまなくなっている。基線そのものが移動しているのである。その移動は止められないのである。政府は地球温暖化に対処すべく、作物の耕作を高地や高緯度地へ移行させるシステムを検討しているという。すでに九州での米作は難しくなり、逆に北海道では良質米の生産が可能になるなどの変化も見えている。

 「ゆっくり歩こう北海道。そんなに急いでどこへ行く」。数年前にこんな標語を聞いたことがある。私たちは忙しすぎる時代を生きてきた。忙しいことが人生の目標だと錯覚してきた。「ヒマ」は悪いことで、多忙こそ生きがいにつながるものなのだと思おうとしてきた。そうしたスピードを、少しゆっくりにすることで、少なくとも私たち人類が僅かでもこの地球に長く止まることができるようになるのではないだろうか。



                                     2015.10.26    佐々木利夫


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変化する自然