権力者がイエスマンに取り巻かれている構図は、腐敗へとつながるケースが多いのは歴史の証明するところだろう。ましてやその権力者が「神」だとするなら、宗教そのものが鼻持ちならないものになることは必須なのかも知れない。

 神は基本的に万能とされている。神を信じていない私が、神の存在を取り上げること自体が自己矛盾なのかも知れない。とは言っても多くの人たちが神を信じ、その神に己を委ねている事実があるのだから、そうした意味で神の存在を頭から否定することはできないだろう。

 そうしたとき、神は万能だとするなら、指一本パチンと鳴らすだけで一切を自分の意のままにすることができるはずである。なのにこの世に「神を信じない」、「他の宗教の神を信ずる」、「神に逆らう」などと言った、「神である己」に従わない者や、日常生活でも欠陥だらけの人間が多数存在しているのは一体どうしたことなのだろうか。

 いやいや、それ以前に、そもそも「指一本で従わせる」などと面倒なことをするまでもなく、神が人間を作ったのだとするなら、「神である私のみを信じる者」だけを作ることで足りたはずである。

 私の神に対する知識の多くはキリスト教、それも断片的な聖書による知識でしかないから、説得できるだけの根拠をきちんと示せないかも知れないけれど、それはそれでご勘弁願うとしよう。ただ聖書によると、神は自分をかたどって人を作ったことになっている(創世記第一章26節)。つまり神は人間と同じような外見を呈していることになる。だとするなら、神はどんな目的で人を作ったのだろうか。

 人を作った目的を、聖書は「この世のすべての生物を治めるため」(同章同節)と書いている。しかし「統治者として人を作った」ことの意味はそれなり理解はできるけれど、だからと言ってその姿を「神に似せる」ことの説明にはならないだろう。神の姿に似せることと統治することの間に何らかの関連があるとは思えないからである。もしかしたら神は、「自分に似た生物を作ることで擬似的な仲間を増やしたかった」、もしくは「自分と対話や意思疎通ができるような生物として人を作った」のだろうか。

 更に、仮に神が自分に似せて人を作ったのだとしても、これだけ異なる顔つきや性格にしてしまう必然はどこにあったのだろうか。無限とも思えるほど様々な顔かたちや性格などを考案するだけの能力を神が有していた(つまり万能)からだと考えるべきか、それとも「いい加減に作ったので一つとして同じものができなかった」と考えるべきかは分らない。ただ結果的に、「一つとして同じ顔や性格がない」ほどの数ができてしまったことだけは事実である。

 こうした結果を、「神が望んだ多様性」と考えることができるかも知れない。神は己を信ずる者だけを作り上げることができたのだけれど、それに反する者の存在も同時に作ることにしたということである。それは、一種のお遊びによる結果だったのだろうか。それとも「神を信ずる」という信念は、神を信じない者、信じることを疑う者の存在を認めることで、より強固になると考えたからなのだろうか。

 前者ならそれは神の気まぐれだし、後者なら人を作ったことは、これほどまで混乱のきわみに誘い込んだ宗教戦争や宗教対立の元凶としての存在になっているのだから、神の失敗作だったとも言える。そして気まぐれだとするなら、そこに見えるのは神の人を弄ぶだけの残酷さでしかないし、あえて言うなら神は身勝手で異常な犯罪者でしかないように思える。

 もし後者だとするなら、神はこの世に混乱だけを撒き散らし、収拾の方法を探しあぐねて途方に暮れている無能力者である。混乱を起こすだけで、少しも後始末のできない幼児そのものである。

 信仰の多様性が一つの信念を確固たる地位に高めていくと考えたとするなら、それはそれで理解できないではない。人間という種の存在を、仮に神の気まぐれだと考えていい。宇宙に人類やそれを凌ぐ生物がいたとして、そのすべてが「神の気まぐれ」によるものだと考えたところで、格別の違和感はない。

 だが生物は、ひとつの「生きる意思」を持ってしまったのである。そうした意思もまた「神の気まぐれ」が作ったものだと言われたら反論のしようがないけれど、「作られた者に、作った者への反論は許されない」とする理屈は通らないと思うのである。

 例えば「人間の意志」というものが、単なる神経細胞の伝達の構成による機械的な作用に過ぎないとしても、そして「考えること」もまた一種の擬製された機械作用に還元できるのだとしても、「作られた者は作った者の言いなりになるべきだ」とはならないはずである。作られた者は作った者の奴隷ではないと思うからである。それは少なくとも「意思を持つように作った者」の責任だと思うからである。

 悲しみや喜び、怒りや憎しみ、そして「神を信ずる」と言った様々な感情なども、もしかしたら機械的な作用によるものなのかも知れない。でも、人は「機械とは異なる」との意思を持ってしまったのである。そう思うように神は人間を作ってしまったのである。

 もしかしたらそうした人間や生物を作ったことを後悔し、ノアの箱舟を作ることで「生物一掃」を図ったのかも知れない。でもどうして神はノアだけを残したのだろうか。どうして全滅させ新たな作り直しを考えなかったのだろか。もしかしたら何度作り直しても自らの意のままになるような人間はできなかったということであり、それはそのまま神は万能ではないことを、自らが認めてしまっているということなのだろうか。

 まあ一番理解しやすいのは、神が人間を作ったのではなく、逆に人間が必要に応じて神を作り上げたと考えることであろう。世界中に民族の数だけ神が存在し、更にその神はいくつもの宗派に分派して争い続けている。「始めに神ありき」、そして「その神が人を作った」との思いを否定することの方が合理的なような気がしている。収拾のつかないまでに混乱している現在の世界を見ていると、「神は死んだ」とするニーチェの言葉が否応なく迫ってくる。


                                     2015.8.20    佐々木利夫


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