現在パリでは、世界150とも190とも言われる国から首脳や行政の担当者などが集まって、COP(国連気候変動枠組み条約締約国会議)の21回会議が開かれている。1997年のCOP3で合意された京都議定書はほどなく崩壊したが、最近の地球環境の変化は対策の猶予が許されないほど待ったなしの状況にある。とは言っても、先進国と開発途上国の対立は相変わらずの状況にある。

 ところで開催地パリでは二週間ほど前に自爆テロによる同時多発事件が起き、19人もの死者を出したばかりである。このためCOP21に向けてすさまじく厳重な警戒がなされている。それは議長国フランスのオランド大統領をして、「我々はテロと地球温暖化という2つの戦いに打ち勝たねばならない」と力説させていることからも分る。

 これらに関連させてフランスのあるメディアが自爆テロの実行犯を指して、「kamikaze」(カミカゼ・現地での発音はカミカズ)と表現したそうである。ニュースはネットを通じて瞬く間に世界中へと伝播する。この記事に接した元神風特攻隊員と称する男性から怒りの声が上がったそうで、その一連の記事がネットに載っていた。彼の言い分は「国のために戦死したのだからテロリストとは全く異なる」が背景にあるという。

 「日本を救いたいという愛国心からの一念によるものだ」、「上司の命令に従い、天皇陛下のために死んだ(特攻した)のだ」とする元隊員の気持ちが分らないではない。だから彼らにしてみれば、そうした崇高とも言うべき特攻の行為が、身勝手な自爆テロと同視されてしまうのは心外だ、と言いたいのだろう。

 だがそうした元隊員の気持ちと自爆テロとは実質的に一体どこが違っているのだろうかと、私は疑問を持ってしまったのである。一つだけ違っていることは分る。パリの事件と特攻隊とは、少なくとも攻撃対象が違っていることである。パリでの自爆テロの対象が「一般市民」であるのに対し、神風特攻隊の攻撃目標は少なくとも私の知る限り「米国の戦艦」であったからである。

 だが、元特攻隊員はなぜかそのことに触れようとしていない。つまり、元特攻隊員も、攻撃対象の違いを理由に自らの特攻を正当化しているのではないのである。恐らく特攻隊員は自らの自爆攻撃が「人倫にもとる行為だ」と自覚して神風機に乗り込んだのではないだろう。ならばパリの自爆犯にそうした自覚はあったのだろうか。

 あったと言うのなら、彼我の違いは明確である。自爆犯が「自らの自爆行為は人間として誤りである」ことを明確に自覚していたことが何らかの方法で立証されたとするなら、それを基準にカミカゼと自爆テロを区別することは、その限度において可能かも知れないからである。でもカミカゼ特攻隊員は果たして、攻撃対象は戦艦であって兵士ではないこと、仮に兵士であってもそれは日本を攻撃する敵としての兵隊であってそれを人と認めることはできないこと、そしてその兵隊に肉親や恋人や友人が存在するかも知れないことは無視してもいいのだと、どこかで確信していたのだろうか。

 私が思うに、パリにおける自爆テロとカミカゼ特攻隊との間には、少しの違いも見つけられないのではないだろうか。一種の戦争のルールとして、「民間人を巻き込むこと」は少なくともタブーとされている。それは更に捕虜さえもが一定の保護受けるとするルールへと進化する。しかし実体や実質がそうしたルールと違うことは誰もが知っていることである。世の中のあらゆる戦争は好むと好まざるとにかかわらず、「民間人を巻き込む」ことの中に成立しているのである。

 確かに前線と呼ばれる地帯は軍人同士のみによる戦線である。だが前線が民間人の一人も居ない無人地帯である保証は少しもない。また民間人の巻き込みは、食料の強奪のような限定的な範囲に止まるものでもない。兵器の発達は一対一を離れて無差別かつ複数の破壊をもたらし、兵器が心を持たないことは事実が明らかにしてきた。そして人もまた「敵と味方」の対立の中に己が人である心を失ってしまうのである。

 第一次世界大戦は高性能な爆弾や戦闘機による大量殺戮を生み、第二次世界大戦は更に原爆をも生んだ。無差別大量殺戮は今や戦争の当たり前の姿になった。日本も原爆の研究をしていたし、原爆とは対比すべくもないけれど風船爆弾と称して爆弾を積んだ風船をアメリカに向けて日本上空の東風に乗せたこともある。それはまさしく無差別攻撃であった。人間魚雷「回天」も特攻隊「カミカゼ」もその一種であり、戦車に向かって爆弾を抱えて飛び込んだ肉弾兵士の姿は同様にカミカゼ特攻機の隊員の姿に重なる。「自爆攻撃」はむしろ日本人の発明によるものなのかも知れないのである。

 たしかに乗組員は自らの行為を「神聖日本の栄誉」と信じて的に向かったことだろう。天皇や日本という国、そして日本人や愛する肉親や恋人を守るために特攻機を発進させたことだろう。そうした兵士の思いにいささかの疑念も抱こうとは思わない。だがそうしたいわゆる「神聖な自爆意識」は、アラーを信じイスラムの民を守りそうした思いを阻害するアメリカやヨーロッパ諸国への対立として生まれた自爆意識とどこが違うのだろうか。

 私は「自爆テロ」を承認すべきだと主張したいのではない。ただ、カミカゼもまた自爆テロの一種であり、パリの自爆テロとは異なるのだと神聖化する思いに納得できないでいるだけのことなのである。もしかしたら「自爆」による敵への攻撃という思いは、日本人の心の中に昔から存在していたのではないかとも思うのである。武士道という思想がいつ頃日本に伝来し、果たしてどこまで日本人に浸透していったのかは分らない。しかしながら「自死」をどこかで美徳とするような思いが、いつの頃からか日本人の中に習性として根付いてしまっているのではないか、そしてそれが特攻行為を美化してしまっているのではないかと、ふと思ってしまったのである。


                                     2015.12.3    佐々木利夫


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自爆テロと神風