対話していて一方の意見と他方の意見が食い違うことは当たり前に存在する。しかし、まるでかみ合わないというのはどうも気になる。「いすか」という鳥のくちばしの上と下が交差していることを、「いすかの嘴(はし)の食い違い」と言い、かみ合わないことを示す諺になっているのもそういう場面が多いことを示しているのかも知れない。

 しかしそれは、一方が自らの意見に固執するあまり「相手の発言を聞いていない」か、もしくは「聞いていないふりをしている」からなのではないかと思っている。場合によっては「本当に聞こえない」ときがあるのかも知れないけれど、それは最初から「聞こうとする気持ちがない」からなのではないだろうか。

 人と人との関係なのだから、時にそういうことがあったとしても許されるのかも知れない。だが、その一方の当事者が間接的である場合は、その「間接的な当事者」はその対話に直接参加できず、しかもその対話からしか情報を得られない場合が多いときには行き場のない混乱に陥ってしまう。

 国会での論議はその最たるものである。政治なんてそんなものさ、と割り切ってしまえばそれまでのことかも知れないけれど、政治が私たちの生活を大きく支えているのだから、そんな割り切りは間違いだと思う。

 そんな気持ちでいるときに最近の安全保障、集団的自衛権をめぐる与野党の対立がどうにも食い違っているように思えてならないのである。集団的自衛権とは我が国と安全協定を結んでいる他国が戦闘の脅威にさらされたとき、我が国が自衛権の発動としてその戦闘に参加できるかの問題である。

 与党自民党は戦後長く「集団的自衛権は国際法上認められる制度であるが、我が国は憲法上認められない」との解釈を長く採ってきた。それを「認められる」との解釈へ変更しようとしているのが与党たる自民党である。この変更を巡る野党の対立が、平成27年7月の国会における最大の審議事項になっている。

 そのことはいい。ただ私たちは選挙を通じて国の政治を国会に委ねたのだから、そこで議論することや議論の中味に対して直接参加することはできない。だからこそ国民に分るように議論してもらわなければ、私たちは日本の行き先を自らの手で決めることはできなくなることを、議論する側がきちんと理解してもらわなければ困るのである。「俺の目を見ろ、何にも言うな。黙って俺についてこい」、では困ってしまうのである。

 ことは単純である。結論にいたる考え方が単純だとは思わないけれど、争点は単純だと私は思う。集団的自衛権が「合憲」か「違憲」かに集約されると思うからである。ところが、この争点に対する与野党の意見が食い違っているのである。対立しているというのではない。そもそも対話になっていないと思うのである。

 野党が「憲法に違反している」と主張する。その主張を正しいと思うか誤っていると思うかは国民それぞれだろうし、それぞれであることを認めるのにやぶさかではない。そうした議論の中で与党は「憲法の規定にはに違反しない」と主張することで対立点が明確になり、そこから国民に分る論争が展開される契機になると思うのである。

 ところが、与党の言い分が「最近の国際情勢の下では・・・」となるあたりから議論がかみ合わなくなってくる。野党の言い分は「憲法違反」の主張なのだから、まさに法律解釈の問題である。ところが与党の言い分は、学者の意見の多くが「集団的自衛権にまで拡大するのは憲法違反」としていることから法律論では分が悪いとみたのか、「現実的必要論」を主張しだしてきたのである。

 最近の国際情勢がどことなく生臭くなってきており、世界の各地でテロとも内乱ともつかぬ紛争が多発している。そうした混乱と日本が無関係でいられないだろうことは分る。また近くは、中国や韓国との領土・領海・戦争責任や慰安婦問題、北朝鮮とは拉致や核開発などを巡る問題などでギクシャクしていることも分る。

 そうしたとき、果たして日本はどこまで武装すべきか、防衛協力している国(例えばアメリカ)の軍隊に攻撃があったときに日本は傍観していていいのか、などなどの問題が提起されることも理解できる。ただ、そうした「防衛力の拡大が必要か否か」の問題と、「集団的自衛権の行使は憲法の規定に違反するかしないか」とはまったく別次元のテーマなのではないかと思っているのである。

 仮に「自衛権行使の範囲の拡大が必要である」ことを認めたとしても、「必要だから合憲になる」こととは無関係だと思うからである。憲法は制文法である。言葉で書かれた一つの文章としての法律である。基本に国民の思いの集約があるだろうことを否定はしないけれど、それでも紙に書かれた一つの文章としての法律なのである。

 仮にその内容がどんなに理不尽であろうとも、書かれた憲法に違反することは、最高法規としての存立の意味からして決して許してはいけないことなのである。それが法律であることの所以であり、最高法規であることの宿命だとも思うのである。

 例えば「殺人は罰しない、犯罪としない」とする憲法の規定があったとする。そうした下で「どんな殺人であっても罪に問うことはしない」としていた従来の解釈を、状況が変化したとの理由で「場合によっては殺人を罰することも許される」とする変更が許されていいはずなどないと思うのである。

 どんな理屈でもいい。たとえば「罪を憎んで人を憎まず」というような理想に燃えた人類の英知への願望が基礎にあって「殺人不問」の規定あったとして、それが時代の要請と合わなくなってきていることを認めてもいい。「そんな理想論では世の中通じないよ」と多くの人が思い始めてきたことを認めてもいい。そうした国民の意識の変化を否定はすまい。

 だからと言って、憲法の条文を変えることなく、「この規定は正当な理由、やむを得ない理由、避けられないによる殺人の免責を定めたのであって、決して悪意ある殺人の処罰までをも含むものではない」などと勝手に解釈を変更していいとは思わない。つまり、「殺人は罪とはしない」との規定の範囲を、「すべての殺人」から「限定的な殺人」へと時の政治の思惑で変更することは許されないということである。これを許してしまうならその規定の内容を、「時の政府に逆らった殺人」、「世論を動かそうと企てた殺人」、「未成年を殺した者」、「乳幼児を殺した者」、「高齢者を殺した者」などなどは処罰できるなど、いくらでも変更できてしまうからである。

 「解釈の変更としての結果」が間違いだとか、考えること自体がいけないことなのだと思っているわけではない。法律といえども時代により、国民の思いの変化などによって変更が必要になる場合があるだろうことはきちんと分っているつもりである。だがそれを「解釈の変更」で済ませてしまうことは許されないと思っているのである。

 だからことは簡単である。「憲法を変えればいい」だけのことだからである。安全保障を共にする国が攻撃されたときに日本がその攻撃に武力で対抗できるかが疑問になり、学者を含む多くの人たちが現行憲法下では許されないと解釈できるような条文になっているのなら、明確に「できる」とする条文に変えればいいのである。少なくとも「解釈による変更」といった、あいまいな理解だけはなくなることは明らかである。

 それは、国際情勢の変化の下で自衛権の拡大を必要と考えるか、それとも拡大以外の方法での対処を望むかの、まさに国民が武力をどう捉えるかについての重大な決断・選択としての憲法問題だと思うからである。

 中国の領海侵犯や韓国の領土問題、北朝鮮の核開発などで日本に危険が迫っていることを真剣に考えるなら、そしてそのために米国との安全保障、米国への協力が必要であると考えるのなら、「解釈の変更でお茶を濁す」というのではなく、きちんと「憲法を変える」のか、「それでもなお変えない」のかという、しっかりとした日本の立ち位置を国際的にも知らしめていくのが、日本国民としての責務だと思うのである。少なくとも政治家に任せる問題ではない・・・と、私は闇雲に思っているのである。


                                     2015.7.8    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
憲法と安保