福島原発事故に伴う放射能については、これまで何度となく書いてきた。そして同じようなテーマでの今回の発表である。だからと言って、これまでの思いが変ったわけではない。にもかかわらず、政府や電力会社の発表であるとかアンケートなどで原発再起動に賛成したり放射性廃棄物の最終処分場が決まっていないことに何の不安も抱いていないように見える人たちの姿に、どうにも理解できない思いが募ってきているのである。

 放射能の測定値が一般的な環境(汚染されていない地域)よりも高レベルであるにもかかわらず、政府はある数値を「安全基準値」として発表し、その数値以下であるからそうした環境に人体が晒したりその地から生産された食品などを摂取しても「安全」であるとする。それはつまり、そうした環境に居住することや働くことや生産された食品や飲料などの販売や摂取を政府が認めるということである。

 そうした際に使われるのが「基準値超えゼロ宣言」という言葉である。これはその地域の放射能測定値が基準値を超えるような環境にないこと、また基準値を超えるような食品の販売はしていないことの宣言である。ただ私が気になっているのは、こうした宣言があたかも「放射能ゼロ宣言」であるかのように利用されていることである。

 「基準値超えゼロ宣言」はその言葉からも分るとおり、その環境なり食品の放射能値がある特定の数値を超えていないことの宣言でしかない。つまり放射能がゼロであることを宣言しているのではないということである。

 「そんなことくらい分っているよ」と言われるかも知れない。「分っていて、理解したうえで居住し飲食している」と言うかも知れない。でも本当にそうだろうか。私たちがこうした宣言に触れる機会は、多くの場合テレビでの放映やそうした商品を販売している店での包装紙や貼られたシールの表示などからである。

 だが、テレビで見る限り人々がこうした宣言について話しているのを聞いていると、「超えゼロ宣言」ではなく、単なる「ゼロ宣言」になっているように思えるのである。コメ生産の農家やカレイやマグロを水揚げした漁師などなど、そうした人たちはこぞって「ゼロ」であることを強調する。それはまさに「この商品に放射能はありません」、「だから安心して買ってください、食べてください」と言っているのと同じように聞こえてしまうのである。

 そんな風に聞こえてしまうことの原因は、話している人がそもそもこの両者で使われている「ゼロ」の意味を混同していることにあるように思えてならない。そして更に私には、この両者の違いを当然理解しているであろう政府や電力会社や行政、更には業界団体などが、意図的にその意味が混同される方向へと消費者を誘導しているように思えてならないのである。

 確かに「超えゼロ」と「ゼロ」とが同じ意味を持つ場合もある。数学的には「ゼロ」は皆無かも知れないけれど、含まれていても「人体に完全に影響がない」ほど微量であれば、それは「人体への影響」という意味では「実質的なゼロ」と同視できるだろう。そうした場合の混同ならば私にも許されるような気がする。

 福島原発事故以前の自然界にも放射能は存在していた。それが仮に地球の生成そのものに関わるものであれ、広島・長崎の原爆投下によるものであれ、はたまたこれまでの様々な国々における核実験やチェルノブイリ原発事故などの影響によるものであったにしてもである。しかしそうした中で世界中の人間の多くが、事実上放射能の被害を受けることなく生存してきたのだから、そうした意味では「ゼロ」が数学的なゼロでないにしても「人体への影響に関してはゼロ」と同視できることを認めてもいいだろう。

 だとすればこの「基準値超えゼロ」を「実質的なゼロ」、つまり「数学的なゼロ」と同視してもいいのではないかと思うかも知れない。でも私は次の三つの理由から同視してはいけないのではないかと思っているのである。

 一つ目は「本当に人体の影響に関してゼロと同視できるのか」という疑問である。私たちが日常的に受けている放射能が、地球本来が持っている人為によらない放射能と原爆など後発的な要因による放射能とどれほどの差があるのか、私はきちんと理解しているわけではない。だが後者のほうが圧倒的に多いだろうことくらいは容易に推察できる。
 ところで放射能の人体に与える影響が調査され始めたのは、少なくとも後発的影響が起きてからのことであり、僅か数十年から100年程度の期間にしか過ぎないのではないだろうか。

 ところで放射能の人体への影響は、直接被曝による死亡や火傷などはともかくとして、生存している期間を通じて影響を受けるガンなどだけでなく、遺伝子の損傷による子々孫々への影響まで考慮する必要があるといわれている。そうだとするならその検証には数百年から数万年を要し、とてもこれまでの期間で解明できたとは思えないのである。つまり、「人体への影響はない」とするデータの根拠は、被曝したであろうその特定個人のせいぜいが生存している期間での検証に限られているのではないかと思うのである。私には、その人の子どもや孫やそれに続く子孫への遺伝子レベルまでの検証は、到底できていないと思えるのである。

 二つ目は「安全であることの将来」である。原発事故に対する安全対策は様々に採られている。だがその対策はどこまで信頼できるのだろうか。安全に絶対という保証はない。隕石や宇宙デブリの落下や想定した地震や津波を超えるような災害の発生など、思いもよらないような災害が決して起きないという保証はどこから来ているのだろうか。

 それだけではない。原発から定期的に発生する使用済み核燃料、今回の原発事故によって生じた大量の汚染土や汚染水や廃炉の廃棄物、更に今後発生するであろう他の原子炉の廃炉に伴って発生する汚染された資材など、人体に影響する放射性廃棄物はこれからも増加していく一方である。それらは的確に管理し保管していくと政府は宣言する。だが放射能の影響が残ると想定される期間は数万年、数十万年にも及ぶとされている。それほどの気の遠くなるような長期間の管理が、果たして人類に可能なのだろうか。

 少なくとも現在では、残されている廃棄物を手品のように消してしまうことなどできはしない。だから残された廃棄物に伴う危険は私たち自身が引き受けるしかない。それは認めるしかない。だが、「廃棄物をこれ以上増やさない」という選択は、私たちにできるのであり、かつ私たちにしかできないのである。

 政府は「廃棄物から放射性物質を抽出する技術を開発する」とも言っている。これを素人にも分るように翻訳するなら、「山のような廃棄物の中から放射能だけを取り出す技術の発明・発見」ということになるのだろう。それは放射能を抽出中和して無害化できる技術の発明を意味しているのだろうか。それとも抽出することで一層高濃度で危険を増した放射性物質を、これまた「長期保存・管理」することを意味しているのだろうか。

 どちらにしても、そうした中和なり抽出保管なりの技術が実用可能なまでに実現されてから、国民にきちんとその安全性を証明した上で実行すれば足りるのではないだろうか。「そうした技術が完成しつつある、将来可能である」みたいな宣言に、私たちの子孫の未来を託すわけにはいかない。

 同視できない理由の三つ目は人の心である。仮に「微量はゼロと同視できる」ことが学問的に承認されたとしよう。その上で事故やテロなどにより「青酸カリが混入された飲料水」が街に流れたとする状況を想定してみて欲しい。その水に含まれている青酸カリが仮に「人体に影響がないほど微量である」ことが認定されたとして、果たして私たちはその水を飲むであろうか。その飲料水しか手に入らなく、他に安全な飲み水がまったくないような極限状態にあるなら、人は安全であることの認定を受け入れてその水を飲むかも知れない。だがそれは他に選択肢がないからだと思うのである。

 だが平穏な生活の場に、「安全な水」と「有毒物質が含まれているが微量であって人体に影響はないと認定された水」の二つが並べられたとき、私たちはこの両者の違いを区別することなく手にし、わが子に飲ませることができるだろうか。私にはたとえその行為が「風聞に影響された愚かな選択だ」と批判されようとも、どちらの水を飲むかの答は自ずと決まっているように思えるのである。

 場合によっては多少腹痛が起きる副作用があるような毒物であっても、薬効があってしかもその毒で命に関わるようなことはないとの保証が得られているなら、場合よって人はそれを口にするかも知れない。だが放射能は「副作用の可能性がある薬」とは違うのである。原発事故に伴う被曝にはなんの薬効もなく、しかも基準値の発表には長期的遺伝的な影響は未知なままなのである。レントゲンやがん治療目的などのように放射能利用に何らかの効用があり、その効用と被害の程度とを比較して被曝を選択するのとはまるで違うと思うのである。

 ところで私はこれら三つの判断に当たって、「経済的な合理性などの思い」はまるで加味していない。それは地域産業の育成や発展・個人所得の増加などと言った「経済的合理性」と、将来を含めた「人の命」とは本来比較すべきものではないと思っているからである。

 私がそれほど人の命を大切に思っているのだということではない。ただそもそもこうした二つを比較したり秤にかけること自体が、間違いだと思っているに過ぎないだけである。


                                     2015.3.25    佐々木利夫


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基準値超えゼロ