少子高齢化はそのまま人口減少社会のイメージへとつながる。そしてこれに都市へと集中するような人の流れを加味すると、極端に言うなら東京都だけに人が集まり、東京以外の街々はお先真っ暗な状況に置かれることを意味している。これではならじと、北海道庁をはじめ全国の市町村がこぞって人口増加策を検討しはじめている。

 まあ当面はあの手この手の居住者探しであり、農漁業の担い手の募集、寒冷地をせめて避暑地として数ヶ月だけでも住んでもらうような複数居住地の選択など、まさになり振り構わない施策を巡って町村などの担当者が走り回っている。

 そうした「田舎に人を集める」施策の一つに婚活なる活動がある。今では「マチコン」と呼ばれるくらいに流行語化しているが、いわゆる市町村が主体となって開催するお見合いコンペのことである。

 どういう形にしろ現代では、結婚は当人同士による決定が基本であり、例えば親が独断で決めるなどの方法は考えられない。とは言いながら、当事者による結婚の合意に至るまでの経過として、まず二人の出会いの場が必要になるだろうことは否めない。

 スコットランドでは、つい数日前に同性愛者間の結婚を合法とする憲法改正の国民投票が行われ、62%もの高率で賛成されたこともあるなど、結婚が「異性間の契約」から少しずつ離れていっていることは世界の風潮である。それはそれとして、結婚の多くが異性間で行われ、やがて子どもが生まれて家族が形成されていくというスタイルは一般に承認されていることだろう。

 そうすると「田舎にも人を増やす」ためには、家族の定着のための生活の基盤が都市以外にも整えられていくことが必要になる。そうして居住地を中心とした世帯が形成され、やがてそれに子どもの誕生が加わるなら、まさに願ってもない人口増加策になる。かくしてマチコンに期待する市町村の思いはますます隆盛を極めていく。

 そんなマチコンのシステムで男女がたやすく結婚するかどうかの疑問はなしとしないが、男女の出会いの場を設けるという意味での、いくつかの成功例は報告されているようである。

 ただ私は、こうしたマチコンに期待する市町村の思いが、どこか今の若い人たちの結婚に対する思いとはかけ離れているように思えるのである。男と女を一つ部屋に入れて、「気にいった人がいたら結婚しなさい」と言うだけでは、どこか「結婚」という意味をないがしろにしているのではないかと思ってしまうのである。

 結婚の意味もよく分からずに結婚してしまう例を知らないではない。また十分に理解して結婚したにもかかわらず、結果的に破綻してしまう例も知らないではない。だから「結婚」に尊厳だとか純愛みたいな思いを付加することが、必ずしも妥当すると思っているわけではない。それでも、結婚は繁殖を目的とするものではないと思っているのである。

 もしかしたら「結婚は繁殖である」との思いは正しいのかも知れない。生殖手段としての男女の結びつきが、長い年月を経て結婚という一種のシステムへと変化(進化)していったのかも知れない。その変化の動機には、育児という子孫の維持のための男女共同作業(場合によっては男は狩猟、女は哺乳という分業だって一種の共同作業である)が必要だったことがあげられるのかも知れない。

 だとするなら、結婚を巡るシステムであるとか、愛情とか家族愛などというものもまた、後から付加された単なる「手法」なのかも知れない。

 そうした結婚を巡るパッケージに若者が気づいてきたからなのだろうか。それとも人の思いというものは時の流れの中で次第に変化していくのが当然のことなのだろうか。そこのところを必ずしも私が分っているとは言えない。ただ、結婚をめぐるシステムが、私たちが理解してきた当然とされるスタイルから、崩壊しつつあるのではないだろうか。

 それは基本的に「なぜ人は結婚しなければならないのか」、「なぜ人生の目的として結婚を、あたかも定められたものであるかのように思ってしまっているのか」に対する疑問であるかも知れない。そうした結婚に対する思いは、もしかしたら「仕組まれているもの」、「思わされているもの」なのかも知れないからである。

 結婚しなければ子孫が続かない、子孫が続かなければ人類は消滅する・・・、そんな危機を人は言うかも知れない。そのことを否定はしない。結婚だけが子孫を継続していくための必須の要件であり、全人類が結婚しないことで生殖を拒否するならば、間違いなく人類はやがて絶滅するだろう。

 ただ人口減少に対する危機意識などの話題は、得てして財政危機とだけに密着しているような気がしてならない。つまり市町村の財政が厳しいので、税金を納めてもらう住民が少しでも増えて欲しいとの思いが根底にあるような気がしてならないのである。その思いはまさに「人口繁殖政策」、「納税人口増加策」として結婚があることを示しているように思えてならないのである。

 そうした思いが正しいことなのか、人間として理想の方向へ向かっていると考えてよいのか、有り得べき人の未来を示していると考えていいのか、その辺のことはよく分からない。また、仮にそれが「より望ましい方向へと進んでいる」ことを示唆しているとしても、果たしてそうした方向自体に意味を持たせてしまっていいのだろうか。私としては結婚に対する若者のイメージが変化してきていることだけは、否定できないのではないだろうかと思っているのである。

 少なくとも現代の結婚は、子どもを作るという目的からは離れていると思う。様々な事情があるだろうけれど、「生めよ殖えよ地に満てよ」との思いは結婚という制度から乖離してしまっている。

 マチコンを巡る婚活で気になることがもう一つある。それは「婚活による結婚」で、後に離婚したカップルのデータが少しも示されていないことである。「素晴らしい結婚」のおいしい話のみでなく、恐らく失敗したケースも多いのではないかと思う。なのにそれを示すことなく婚活の成功例のみをアピールするのは、どこか間違い、それも結婚という重大な選択をするために必要なデータの隠匿になっているように思うのである。

 「結婚とは何か」の模索なしに、婚活という活動のみにうつつを抜かしている世間の風潮に、どこか結婚を軽視しているような、そんな思いを深くしているのである。

                                     2015.5.28    佐々木利夫


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婚活への呪縛