NHKの半年続く朝の連続ドラマを見てから事務所へと出勤するスタイルは、退職して以来15年余私の定番になっている。

 そんなときに、日本民法を改正するとのニュースが流れ、その概要(案)が紹介された。その中に時効制度の改正や約款の有効性などが盛りこまれていて、ちょうど見ていた連ドラ「マッサン」の放送(2015.2.11)と重なったこともあって少し違和感が残ったので少しここへ書いてみることにした。

 このドラマが北海道余市町に工場を持つニッカウヰスキーの創立から現在までを追いかけた、創業者竹鶴政孝の物語であることは分っていた。主人公マッサンが現サントリー(ドラマでは鴨居商店)から独立して余市で創業したことも、ウヰスキーの商品名を会社名である「大日本果汁(略称『日果』)」からとって「ニッカ」としたことも、何度も工場見学に行ったことなどから分っていた。

 そうした歴史とドラマの構成に違和感があったわけではない。たとえ筋立てが私の記憶や、史実と違っていたにしても、それだけでドラマを批判しようとは思わない。それはむしろ、ドラマとしては正統に属するのではないかとも思っているからである。ただ気になったのは、今日の放送のストーリーの作り方があまりにも安易に過ぎるのではないかと思ったことであった。

 気になったのはこんなストーリーであった。主人公は大阪の商人から今の価額で数千万円にも及ぶ出資を受け、北海道余市町に「リンゴ果汁生産」のための工場を設立する。もちろん主人公の夢が日本における本格ウヰスキーの製造にあることは暗黙の了解事項である。ただ出資を受けるに当たり、彼は果汁の販売が軌道に乗って安定的な経営になるまで、ウヰスキーの製造はしないとの約束を出資者と交わしていた。

 ところが果汁販売の業績は思うに任せず、やがて彼は「リンゴワイン」の製造へと方針を変更することを思いつく。そしてそのための資金として、出資者に更なる融資を申し込むのである。もちろん当初契約どおりに、経営が軌道に乗るまでウヰスキーの製造はしないとする条件はそのままである。このとき彼は出資者に対して、再度「あなたの許可なしにウヰスキーを作ることはしません」との宣言までするのである。

 ところがその約束に反して、彼はワインの製造にまったく手をつけることなく、独断でウヰスキーの製造を始めてしまうのである。もちろんウヰスキーを商品として流通させるためには、原酒を樽に貯蔵して熟成させるという長い期間が必要となる。製造から6年を経て、どうやら熟成された味に自信を得た彼は、ウヰスキーの販売へと踏み切ることにする。そこで彼は出資者に対して、独断でウヰスキーを製造していたことの謝罪の告白をするとともに、その販売の許可を求めるのである。

 今日の放送は、ちょうどその告白をする場面であった。私は彼の行ったあからさまな背信のドラマを見ているうちに、突然へそが曲がってしまったのである。彼は少なくとも6年もの間、契約違反を出資者に知らせることなく騙し続けていたのである。そのことは結果的になるかも知れないけれど、当初の出資額も含めた経営全般に関する契約を、完全に裏切っていたことになるのである。

 少額なら認めてもいいというわけではないが、北海道に土地を買い、工場を建て、設備を入れて人を雇い、数年間も営業を維持するという一連の巨額な投資の使途について、彼は出資者を完全に欺いていたのである。やり方が多少違ったとか、内容を少し変えたという程度の変更ではない、「了解なしにウヰスキーは作らない」という出資契約の根幹にかかわる条件を、彼は自分の身勝手な思いだけで無視したのである。

 しかも彼のウヰスキー作りを応援する周囲の者たちが怒る出資者に向かって言い放った、「信頼して出資したのだったら、とことん任せるのが人の思いではないか」とか、「ウヰスキーはマッサンの夢だ」というセリフを聞いて、私のへそはますます大きく曲がったしまったのであった。

 私たちはこの物語がサクセスストーリーであることを知っている。このウヰスキー作りがこの後様々な曲折を経るにせよ、結果的に日本中がその名を知る「ニッカウヰスキー」として成功し企業として定着することを知っている。そのことはつまり、契約違反をしたかも知れないけれど、出資者がその出資額を失うことなどないことをあらかじめ知っているということである。

 だからと言って契約に違反したという事実に影響を与えることはないと、私は思うのである。「マアマア」とか「ナアナア」で違反が許されるとも思えない。結果がオーライだからといって、少なくともドラマに描かれた「ウヰスキー作りの夢」が物語としてはともかく、契約として正当化されることなど決してないと思うのである。

 今回の民法改正の動きに、このドラマのストーリーが直接関係しているわけではない。新たに契約違反として付け加えられたり改正されるというわけではなく、現行民法においても当然に違反であることに違いはない。ただ、かつて仕事に関連して民法の契約法の分野に傾注したことのある私にとって、この違反を素直に承認することはできなかったのである。

 もちろん出資者が違反を追認することで、その契約が当初から有効になることを知らないではない。恐らくこのストーリーは今後、嫌々か、渋々か、それとも思いがけない僥倖が起きるかはともかく、出資者がウヰスキー製造を追認するという形で進んでいくのだろう。ただいずれにしてもその進行はいかにも日本的であり、成功譚を背景とした「俺の目を見ろ、なんにも言うな」とか「男は黙ってサッポロビール」、「夢は男のロマン」みたいな情緒論の中に埋没してしまうような気がしてならない。

 だからこそ視聴者は安心してこのドラマを見続けることができるのだ、とする意見もきっとあることだろう。だが私は、契約の本質をこんな情緒論で曲げてしまっていいことなどないと思っているのである。それは、たとえドラマが昭和10(1935)年前後の日本情緒てんめんたる時代を背景に描かれているとしてもである。

 契約の基本は信頼である。西欧での契約の基本は「神」だから、そうした点で日本人の契約感はいわゆるグローバルな意味での契約への思いとは違うのかも知れない。日本にはかつて契約違反の制裁として「満座の中でお笑い下されてもかまわない」との条項があったと聞いたことがある。

 契約への思いの違いを「恥」の文化と「罪」の文化の違いだと割り切ってしまうには、どうにも納得できないものをこのドラマに感じてしまったのである。

                                     2015.2.19    佐々木利夫


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マッサンと契約