頭の中で抽象的に考えていることと、目の前で見ていることとはどうしたって食い違うことが多い。そんなことは日常的にありうることであり、そんな時人は結局自分に都合のいい理屈を考え出してどこかで妥協し、自らを納得させてしまう。そうしたケースは世の中には当たり前に存在しているし、私の中でもそれほど珍しいことではない。だからこんな話しなんぞどうでもいいと言えばそれまでである。

 ところが、そのことがどこか気になり、しかも自分に直接利害関係が及ばないような物事である場合には、どこか自分の中にいつまでも引っかかるものを感じることがある。たとえそれが結論の出ないようなことだとしてでもある。

 そんな中にこの「連続」の問題がある。もちろんこれは私だけの思いである。そして愚にもつかない思いでもある。70歳をとうに過ぎた老人が、こんなことを考えたところでまったくなんの意味もないことは、自分自身がよく知っていることである。それでもなお気になってしまうのである。

 この連続・不連続で一番気になるのが、物質の分割である。つまり、物質はどこまで分割できるのかという疑問であり、連続なら「分割はここまで、ここで終わり」と言えるし、不連続であるなら「いくらでも細かく分解することができる」ことになるからである。

 ギリシャ時代に「原子」という粒子を物質の最小単位とする考えが生まれた。こうした考えは長く信じられ、水素、ヘリウム・・・酸素・・・ウラニュウムなどと言った最小単位としての原子が物質を構成するのだと考えられていた。つまり私たちの周りにある様々な物質は原子が基本になっており、それはつい最近まで信じられていた。

 水素2原子に酸素一原子が結びついて、「水」という化合物かつ分子と呼ばれる物質が構成されるとの考えは、現在でもある一面での真実を伝えている。薬品やプラスチックから世の中のあらゆる物質が分子からなり、しかもその分子が原子の結合の組み合わせによるとの理論は、私たちを完全にといってもいいほど説得することができていた。

 つまり、原子はまさにそれ以上分割できないものであったのである。錬金術(ある物質を科学的に金に変える技術)は化学の発展という面への貢献はともあれ、不可能であることが証明された。つまりある原子から異なる原子への変換は不可能とされた。

 だが原子が最終物質という考えは否定された。原子爆弾は異なる原子が生まれるときの質量の減少がエネルギーに変換されたものだといわれる。また新たに量子力学が考えられ、原子はさらに小さな粒子に分割されるとされることになった。クォークの発見であり、ダークマターと呼ばれる未知の存在(それを物質と呼んでいいのかどうかさえ私には分っていないけれど・・・)へと結びついていったのである。

 連続とは一種の無限でもある。あるものがたとえばいくらでも分割できるとするならば、それは際限のない分割(つまり無限に分割できる)を意味するからである。分割された単位がどれほど小さいとしても、その単位を更なる分割へと誘導できるなら分割には際限がないことになってしまう。

 こうした考えが現実の物質に適用されるのかどうか、まだ私には理解できていない。原子よりも小さい、例えばクオークが更に分割できたとして、そのクオークから分割されたものが更に分割できるのかどうかまだ分らないでいるからである。

 数学の分野でのこうした分割が無限に続くことは、割と簡単に理解できる。三分の一という分数が0.333333・・・と無限に続くことは、誰でも知っている。また少しでも数学に興味のある者ならば、平方根や円周率などが無限に、しかも循環することなく続くことを知っているだろう。

 それでも三分の一の三倍が一になることは理解できても、0.3333・・・の三倍、つまり0.999・・・が1であることとは必ずしも結びつかないのではないだろうか。私たちはこの後者の答が1であることを当然のこととして自らを納得させている。その証明として前者から後者を差し引くとその答つまり差が0になることをあげる。つまり差が0だから両者は等しいと結論付けるのである。

 だが1-0.999・・・=0だと言ってもいいのかどうかはかなり疑問である。答が0.0000・・・と無限に続くことは理解できる。だが私の頭は、1の方が0.999・・・よりも大きいと、どうしても思ってしまうのである。確かにこの計算を数百年、数億年続けたところで、0.000・・・と永久に0が続くことは認めざるを得ない。だが両者を等号で結びつけてしまうのにはどうしても抵抗が残ってしまうのである。私の頭はどうしても不等号を使った、1>0.999・・・になってしまうのである。

 √2は1.41421356・・・である。だから√2を平方すると2になる。それはそう約束したからである。だが平方根をいくら二乗しても1.999・・・にはなるけれど、決して2にはならないのである。それは有限個の範囲で掛け算をしたからだということは分っている。でも果たして無限個を平方したとすれば本当に2になるのだろうか。そもそも無限個の数列を平方するとは一体何を意味しているのだろうか。

 線はいくらでも二分できる。面積もまたいくらでも半分にすることができる。天下の名刀を利用するなら、どんな立体だって両断可能である。それはその長さなり面積なり体積の単位が、たとえ私たちが日常的に使うような単位をさらに下回りミクロの世界に入り込んだとしても同様である。更に半分、更に半分・・・、分割は際限なく続けることができる。その意味もまた私の中では解決できないでいる。

 数はいくつあるのか、奇数はいくつあるのか、素数は有限なのかなどなど、私たちの身の回りに無限は当たり前にひしめいている。そうした中にあって不連続には人をどこかで安心させるものがある。これ以上分割できないとするある最小単位があって、その集合が特定の物質なり理屈を構成しているというような考え方は、どこか私たちを安心させてくれる。

 数学に「整数論」という分野がある。1,2,3,4,5・・・と続く数の範囲内で考える数学である。つまり小数とか分数などを含めないで数を扱う世界である。もちろんこの数列は無限まで続くのではあるけれど、「物事が割り切れる」という思いが整数論にはある。それはそのまま、例えば「物質は原子からできている」というギリシャ時代の考え方のように、割り切れることの安心感、安定感を私たちに与えてくれる。

 無限と連続は、私のような素人が考え出すと、たちまち混乱してしまう。例えば時間を、過去、現在、未来に分けて考えることは日常的に行っている。だが、未来はまさに未来であって経験できない分野なのだから、「ある」ということはできない。過去もそうである。「過去があった」という事実は果たして「あった」と証明できるのだろうか。忘れてしまった過去は想起できないのだから、その部分の過去は「なかった」ことになってしまうのだろうか。それともそれは単なる想起の問題であって、記憶がよみがえってきた時であるとか、写真を見て思い出した、他者との会話から記憶が戻ってきたなどがある場合は、「単に忘れただけであり、忘れることなどに関係なく過去は客観的にあった」と言っていいのだろうか。

 はたまた現在とは何だろう。「今」が現在だと言うかも知れない。でも「今」に時間的な幅はあるのだろうか。時はどんどん過去へと過ぎていく。だとすれば過去を含めない「今」という考えもまた瞬間というか刹那というか、幅のない時間を意味していることになる。そして「幅のない時間としての今」を考えたとき、果たしてそれは「今」なのだろうか。まさに「今」は無限小を意味するのであり、そんな無限小をいくら積み重ねても「今という幅のある時間」など生まれてこないだろうからである。それは逆に「今という時間は存在しない」ということを意味している。

 こんなことはいくら考えても、恐らくは時間の無駄である。現に昨日があり、今コーヒーをすすり、明日はきっとこの事務所でぼんやりとテレビ観賞などをしながら過ごしているだろうからである。私の能力からするなら、こんな思考をいくら重ねたところでそこから人類の未来を作り上げるような哲学や芸術が生まれてくることはないだろう。無為の積み重ねがどれほど続こうとも、積み重ねの単位が「無為」であるなら、結果もまた「無為」でしかないだろう。ここにある後期高齢者の山ほどの無為・・・、ああ・・・。

                                     2015.6.10    佐々木利夫


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連続と不連続