新聞を読んでいてこんな記事にぶつかった。「傲慢 トップ 経営リスク」という見出しの記事であった(2015.3.16、朝日新聞)。経営トップが自信過剰になって周りの助言を聞かずに暴走し、会社が存亡の渕に陥る、そんな内容の記事である。これは日本だけのことではないらしく、英国では「人格障害の一種」ととらえて、その対策を考える研究が始まっているという。

 この記事に呼応するかのように、ある家具メーカーでお家騒動が持ち上がった。創業者である社長が退任し社長職を長女に譲ったものの経営方針をめぐって対立が起き、株主総会で代表者をどちらにするかの委任状合戦にまでなった騒動がメディアを賑わしたケースである。

 お家騒動にまで発展するかどうかはともあれ、創業者が身内や職員、株主などと対立してトップの座を追い出されるようなケースはそれほど珍しくない。と言うよりは、創業者が追い出されるストーリーをマスコミが面白おかしく騒ぐ、というパターンが多いようだ。

 前述した朝日新聞の記事は、創業社長に多い「傲慢症候群」と題して自己陶酔、外見が気になる、現実感覚の喪失など14もの症例を一覧表として掲げている。なるほどと思えるような症例もあるけれど、ときにはそうした思いがあるからこそ企業として成功してきたのではないかと思われる症例もあり、そう簡単に結論は出せそうにない。

 ここではそうした症例なり社長の傲慢といったことの当否を書こうと思ったわけではない。社長が傲慢になりやすいという症例などを読んでいるうちに、ふとリヤ王の物語を思い出したのである。

 これはシェークスピアの有名な戯曲の一つである。世界中の人口に膾炙していると言ってもいいだろう。ストーリーはそれほど難しくはない。ある国の王であるリヤが、高齢を理由に娘3人に領土を分割し自らは隠居三昧の生活を送ろうと考える。だが狡猾な長女、次女の口車、三女の親を思う気持ちの表し方の下手さなどにより、三女には何も与えず上の二人に全財産を渡して隠居する。だがそのとたんに長女・次女は掌を返したように父をないがしろにし始め、見捨てられたリヤ王は狂乱し放浪のすえ優しい三女を頼ることになるという話である。

 この物語を思い出したのは、王という権力者としての地位がいかに傲慢に結びつくかという点でこの新聞記事と重なったからである。だがもう一つ、リヤ王がどんな死を迎えたのかについて私の中できちんと理解できておらず、普段から気になっていたことも後押ししている。

 だからと言って、わざわざ本を買うほどでもないと思ったので、いつも通り図書館の蔵書検索に頼ることにした。前にも書いたけれど、この蔵書検索は札幌市の全図書館の蔵書を対象に、希望する本を近くの図書館や区民センターなどまで配送してくれるシステムであり、とても重宝している。

 この本は名作のせいもあってあちこちの図書館に蔵書されている。それで一つこの本を物語として読むだけでなく、古典としても併せて読んでみようと思いついた。誰の翻訳がいいのか、いつ頃の翻訳がいいのかそれほどの知識はないけれど、まあそんなに難しく考えることもないだろう。そんなこんなで行き着いたのが坪内逍遥の翻訳による「新修シェークスピア全集第30巻 リヤ王」である。発行は昭和9年、定価特価50銭とあり、訳者・年代とも申し分がない。

 それにこうした動機とは別に、著作とは言いながらこれほどの権力者であるリヤ王の死について、私が少しも知らないことが気になっていた。それは「もしかしたら私はこの物語を読んだことがないのではないか」との疑問にもつながる思いだったからである。

 やがて図書館から本が届いたとのメールが届いた。徒歩数分の区民センターへ行きパラパラめくってみたところ、表紙の次のページに「リヤ王 とうとう死んでしもうた! 死んでるか、生きてるか分らないでか? 土のようになってしまうてをる」の一文が印刷されたセロファン紙があった。この本を最後まで読み終えてから、これは三女コーデリアの死を嘆くリヤ王のセリフだったのだと気づくのだか、その時は自らの死の近づきを悟ったリヤ王自身の独白とも感じられたことから、一応リヤの死もこの本には記されていると感じ読破に挑戦することにした。

 それほど長い戯曲ではなかったのだが、読み終えるにはそれなり苦労した。翻訳者である坪内逍遥という名前そのものが、私の中では「明治の文豪」みたいな印象があり、その通りの文章だったからである。夏目漱石の小説が現在の学校教育では古典に属していると言われているらしいがまさにその通りであり、日本語というものの変遷というか変化が、僅か昭和・平成という短時間でこれほど明らかなのだろうかと、驚いてしまった。確かに日本語に翻訳されている。ほとんどの漢字にはルビが振ってある。だが、私たちが日常に「日本語」として理解している文章とはまるで異質な「日本語」がそこにあったからである。

 シェークスピアの作品が日本語に翻訳され、30巻の全集として発行された一冊がここにある。それも昭和9年のことだから、今から80年ほど前でしかない。私は現在75歳である。話し言葉と書き言葉とは違うことは、それなりに知っている。だが大雑把に言って、私が生まれた頃の日本語はこんなだったのだろうかと、驚くほどの古文であった。それでも日本語である。「たかが日本語」との強がりがあったのかも知れないけれど、どうやら読み通すことができた。

 話題が「変化する日本語」の方向へと移ってしまったら、このエッセイは終わらなくなってしまう。そうした話題は別の日に譲るとして、ここはとりあえずリヤ王の戯曲に戻ろう。権力者が隠居後も思いのままに生きていけると思い込み、そして肉親にまで裏切られる悲劇はすでに誰もが知っているストーリーだから、ここでは繰り返すまい。さて問題は気になっていたリヤ王の死についてである。

 あっけなかった。この翻訳者の意思なのか、それとも原作がそうなっているのか、それは分らない。ただこの本による限りリヤ王の死を示すのは、ト書きに書かれた「王息絶える。」(P291)の言葉のみである。そしてこの戯曲は、数行を残して幕を閉じるのである。

 あっけないと書いたけれど、そのあっけなさに奇妙にも納得している自分がいた。「これでいいのかも知れない」と自分を説得しているもう一人の自分がいるように感じた。自分を見失うほどにも数多の裏切りに囲まれている中で、我が身を最後まで理解してくれた末娘のコーデリアの死に触れてしまったリア王の死は、こうした「何も書かない」、「何も言わない」とする結末が一番ふさわしいのかも知れないと感じたのである。リア王の悲しみをこの一言の中で示したことが、もしかしたらシェークスピアのたぐいまれなる才能だったのかも知れないと、ふと思ったのである。そしてこの一冊をどうやら読み終えたことに、どことなく安堵し満足しているのである。


                                     2015.4.1    佐々木利夫


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リヤ王の死