いつの世も世論調査には人気があり、時にそれは選挙に代わる民意として利用されることもある。選挙が理屈の上では有権者による全数調査なのに対し世論調査の多くは部分としての意見だから、両者を混同してしまってはいけないだろう。それに選挙が「国民の意思」としての側面を持つのに対し、世論調査は恐らく部分意見だということに起因するのだろうが、多くは法的な拘束力を持っていない。

 それはそれでいいだろう。選挙というきちんとした手段があるのだし、私たちはそれにより選ばれた代表に自らの将来に対するある種の決定権を委ねたのだと言えるからである。

 選挙がどこまで国民の意思を反映する「きちんとした制度」なのかどうかには疑問があるけれど、少なくとも現在考えられるシステムの中では最良のものだと、私たち自身が承認していることは認めざるを得ない。

 それはさて置いて、話を世論調査に戻そう。かつての世論調査は、行政や放送機関や新聞社などが調査表を持って様々な家庭を戸別訪問してデータを集めるか、それとも街頭で意見を求めるものが多かった。しかし、そうした手法は今ではまるで通用していないようである。

 そうした意見集約方法をアンケートと呼ぶか世論調査と呼ぶかはともかくとして、結果を発表する者の説明によれば、今ではほとんどが電話によるデータ収集である。コンピュータでランダムに発生させた番号に電話をかけ回答を貰うものである。こうした手法はそれほど費用がかからないせいか、手法そのものの割合は高くなり、かつ世論調査そのものの回数としても増えてきているような気がする。

 内容的には一回の調査として大体1500〜1600件くらいに電話をかけ、そのうち回答が得られた1000件くらいをデータとして分析している例が多い。つまり集められたデータ数は千件前後というわけである。

 千件前後の回答数でどこまで世論として評価できるかはいささか心許ない気もするが、恐らく統計学的には信頼できる結果が得られると分析しているのだろう。ただその信頼の前提としては、回答のあったデータ数がいわゆる国民なり市民なりを代表する集団になっていることが必要であろう。

 偏った集団から選ばれたグループの意見は、仮にその選択が無作為だとしても偏った意見が集約されることになってしまうだろうからである。こうしたことは例えば原発再稼動の賛否などの意見集約に極端に現れている。原発の存続を原資として国や企業から補助金や支援金を受けている自治体の住民、就職にしろ従業員の食事や宿舎などで利益を得ている者の多い地域を母集団とする抽出意見と、原発のない地域を母集団とする同じような調査とではまるで異なった結果を示すからである。

 もちろん意見を求める対象が、どんな場合も国民である必要はない。「どんな髪型をしたら男の子にもてるか」などの意見集約は、中学生の女子グループを対象として意見を求めたほうがふさわしい結果が得られるだろうからである。また、辺野古に米軍基地を設置することの賛否は全国民を対象とすることもいいけれど、むしろ辺野古地区か少なくとも沖縄を母集団とする意見集約のほうが望ましいだろう。

 ただ時にそうした意見は、地域エゴとぶつかる場合がある。ごみ処理場、葬祭場の設置などなど、己の住む場所には建築を許さないなどのエゴが公共性と真っ向から対立するような場面を生むことは、私たちが日常的に経験していることがらである。

 このように世論調査といえどもその評価には一筋縄ではいかないものがある。ただ私が今回気になったのは、そうした意見の求め方のなかに、「どちらとも言えない」という選択肢が含まれていることであった。こうした選択肢はどんな質問にも必ずついており、しかもそれを選ぶ人がけっこう多いことに一層気になったのである。

 質問の中味に、AかBかの選択だけではなく「どちらとも言えない」という選択肢が必ずと言ってもいいほど含まれているのである。こういう選択肢があったところで、見かけ上それほどの違和感は覚えないようにも思える。Aも良いけれどBにも捨てがたいものがあるとする考えや、AもBも共に反対であるとする意見があったところで、特に不自然ではないように思えるからである。

 必ずしも良い例だとは思わないけれど、「仕事と私のどっちが大切なの」とか、離婚に際して子供に向かって「お父さんとお母さんのどっちを選ぶの」など、選択に困るような質問がないとは言えない。でも世論調査の多くは、行政なり国の指針として国民なり市民がどんな方向を求めているかを探りたいために行うものである。実施者には国民なり市民の方向なり意思を確かめたいとの願望があるのだと思うのである。

 「そんな質問どっちだっていいよ・・・」とするような質問が呈示される例がないとは言えないかも知れない。また、そんな質問に責任を持って答えるほどの価値はないと思えるような例がないとはいえない場合もあると思う。でも世論調査の多くが回答者の意思を尋ねることで、国民や市民が抱いている意思の方向を知りたいと思ってなされているのである。

 そんなときに「どちらとも言えない」との選択肢は、回答として無責任なのではないだろうか。そして同時に質問者の質問の作りかたそのものが、きちんとしていないからだと批判されてもいいと思うのである。

 それは「どちらでもいい」、「どちらとも言えない」との回答は、回答者が行政なりに白紙委任したことになってしまうからである。国や行政が結果的にAの施策をとろうが、はたまたBにしようが、更に言うならAもBも放棄して無策のままでいようが、「我関せず」を表明したことになってしまうからである。「適当にやってくれ」、「私は無関心だ」を宣言したことになってしまうと思うのである。

 またこれは回答者のみの責任ではないかも知れない。質問者には、回答者がきちんと選択できるような質問の作成が義務付けられているとすら思うのである。私には「どちらとも言えない」との選択肢を作らなくてもいいような、ぎりぎりまで詰めた質問の作成が課せられているとすら思うのである。

 現在の世論調査の結果は、少しも煮詰められていない単なる質問の垂れ流しのままであるように思える。質問者はそんな無関心とも思える回答がどんなに多くても、そのことに少しも触れようとはしない。絶対賛成5%、まあまあ賛成27パーセント、どちらかと言うと反対30%、絶対反対4パーセントの結果だけを解説し、「どちらとも言えない」が30%を超えようとも、そのことを評価しようとすらしないのである。

 これはまさに国民が為政者のなすがままに流されていることの証左でもあるような気がしている。それとも世論調査の意図は逆にそうした無関心層を作るために利用されているのだろうか。そとれももっと勘ぐるなら、そうした無関心層が多いことを奇禍として政府や行政がその施策が国民から支持されていることの例証として利用するために実施され使われているのだろうか。

 だとするなら、「どちらとも言えない」の選択肢は、実はとても大変な意味を持っているのかも知れない。回答者の意図とは無関係に、質問者の身勝手に利用されるものとして存在しているかも知れないからである。「どちらとも言えない」の選択肢は、実は質問者が一番選択して欲しい回答であり、そこへと誘導することこそが世論調査の一番の目的になっているのかも知れないからである。


                                     2015.11.12    佐々木利夫


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選択肢「どちらとも言えない」