7月7日、岩手県で一人の男子中学生が列車に飛び込んで自殺した。彼が担任教師と交換していた「生活記録ノート」にこんな間違った漢字が書かれていた。私が最初にこの事件に気づいたのは、彼の余りにも文字を知らないことについてであった。

 テレビで最初にこのニュースを見たとき、画面には「市ぬ場所は決まっている」(6月29日)の手書き文字が放映され、その解説に「市ぬ(死ぬ)・・・」と表示されていた。そしてこれが遺書であり、自殺の根拠とされていた。私はこのとき、こんな簡単な文字も満足に書けないような「中途半端な中学生」、との印象を真っ先に感じてしまったのである。

 ところが他のニュースでこの遺書とされる生活記録ノートには、この記録の前日にも同じような表現があることが分ってきたのである。その内容は「氏んでいいですか・・・」(6月28日)であった。彼のいわゆる表記が単なる誤記なのか、それとも不知だったのか、はたまた意図的なのか、それは分らない。なにしろ、これだけのデータしかないからである。だからこれから書くことは、まったく私の独断である。裏づけもなければ、状況的な証拠もない、まったくの私の思い込みである。

 一つだけの間違いだったなら、私はきっと本人の誤字(たとえ単なる記憶違い、またはまったくその漢字を知らなかったにせよ)であること決め付けていただろう。自殺した中学生という印象に、「こんな漢字も知らない出来の悪い生徒」というイメージを加えて記憶したのではないかと思う。

 でも彼は「死」という漢字を「氏」と書き、更に「市」と書いたのである。これは少なくとも間違って覚えているからではないと思ったのである。二日続けてノートに「自らの死」について書いていて、その「死」の文字を異なる二つの漢字として記憶しているなどありえないだろうと思ったからである。

 「死」という漢字はそれほど難しいものではない。ましてや「氏」や「市」と間違って覚えるような錯覚を与える文字でもない。しかも、前日に「氏」と書き、翌日に「市」と書くような間違いを犯す感触を、そのノートの他の記述から受けることもなかった。もちろん「死」という文字を知らなくて、間違って「氏」、「市」と記憶してしまったということはあるだろう。でもその場合はきっとどちらか一方の漢字に錯覚しているのではないだろうか。つまり、「氏」なら「氏」、「市」なら「市」に決まってしまうのではないかと思えたのである。

 そして更に思ったことは、「死」の文字を知らなかったとしたときでも、「氏」や「市」は「死」と結びつくような文字ではないのだから、誤って覚えてしまうということ自体が不自然であり、もし私なら「死」の文字を思い出せなかったとしたなら、ひらかなの「し」を用いたと思うのである。そしてそれで十分、「死」と通じたと思うのである。

 それで私は、彼は「死」という漢字を知っていたに違いないと思ったのである。なのに彼はその文字を書けなかったのではないだろうか。漢字が象形文字として形からくる特定の意味を持っていることを知らないではない。でも「死」という漢字そのものに、「死」にまつわるおぞましい様々が込められているとは思えない。ましてや中学生に「象形文字としての死」が理解できていたとは思えない。

 たが「死」が一つの「人間の最終的な形」であることは理解できていたはずである。そしてそれは「自殺」という形で実現できることも・・・である。そうした意味では「死」という文字は、まさに自分がいなくなることの象徴としてのイメージを与えたのではないだろうか。そしてそれは恐らく中学生にとっては「苦痛を伴う恐怖」そのものではなかっただろうか。

 彼は生きたかったのだと思う。内心では必死に生き延びることを願っていたのだと思う。今朝(2015.7.11.)のNHKニュースによれば、彼は一年前にもこのノートに「いじめられている」、「死にたい」と書いていたという。担任はそのノートを通じて、彼の思いを知っていたはずである。彼は一年後のノートにも同じことを書き、その一ヶ月ほど前の担任との相談でも「いじめ」の事実を訴えていたという。

 こんなにも切実な訴えが、担任の心には届かなかったのである。恐らく担任は「そこまで追い詰められているとは知らなかった」と言うだろう。記者会見で校長は、担任とのやり取りは「私にまで届いていなかった」と話している。つまり程度の差はともあれ、担任も校長も「そこまでとは知らなかった」との主張であり、そのことはそのまま「知らなかったことで免責される」との思いがある。

 私は職場でも上司や先輩などが、「そんな話は、俺は聞いていない」と主張するケースを何度も経験してきた。多くの場合「そんな話」とされる企画なり計画が失敗したときに発せられる言葉である。つまり、「知らなかったのだから失敗の責任は俺にはない」との意味である。

 こうした傾向はやがて「知ろうとしない」、「何かの機会に聞こえてきても、知らないフリをする」、「報告を受けても聞かなかったことにすると相手に強要する」などへと進んでいく。

 私には、「氏んでいいですか」や「市ぬ場所は決まっている」との間違ったかに見える表記が、決して間違いなのではないと感じられる。その文字は、彼の切羽詰ったどうすることもできない「いじめへの恐怖」、「助けを求めたことへの無関心に対する絶望」、そして「死を選択しなければならなくなってしまった状況への逼塞」、そして「自殺するしかないことへの嘆き」に満ち満ちているように思えてならないのである。

 文部省や県の教育委員会などが原因追及などに乗り出すという。これまで何度も同じような事件が繰り返され、そのたびに「原因追求、再発防止に努めます」の回答が「責任者です」と称する者の頭を下げる姿が映像で流れる。そんな風景を見るたびに、「死んだ者」の思いが空中に霧散してしまい、代わりに空疎さだけが残るような気がしてならない。果たして彼らはどこjまでこの事実を真剣に考えているのだろうか。私には記者会見が終了した後で、「やあ、まいった、まいった、どうやら無事にテレビから開放されたよ・・・」と、家族や同僚とビールを交わしている「責任者」と称する者のホッとした顔が目に浮かんでしまうのである。


                                     2015.7.11    佐々木利夫


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氏・市んでもいいですか