「『何かあったらどうする』は禁句」と題する新聞投書があった(2015.7.4、朝日新聞)。心配しすぎて歩き出さないのが日本人の悪い癖だと言いたいらしい。こんな内容である。

 「大人が子どもに注意するときの言葉に『何かあったらどうするんだ』があります。・・・この言葉には返答のしようがありません。『何か』が具体的でないからです。・・・人が新しいことにチャレンジするときには、問題や困難がつきまとうのは当然のことです。・・・具体的にどういった問題が起きるのかを想像して列挙し、それらの問題をどうやって予防するのか・・・対処するのか考え、教えるのが親や教師、上司のあるべき姿だと思います。安易なだけでなく適切でもない言葉で、人の未来の芽を摘むようなことは慎む。そんな世の中であってほしいと思います」(東京都、男性、43歳)

 つまり彼が言いたいのは「不確定な未来の危険を理由に子どもの芽を摘むな」であり、抽象的な理由を基に不安を煽るのはむしろ大人の責任放棄だと言いたいのである。

 こうした言い分がまるで分らないというのではない。ただ、将来起こるであろう危険のすべてを具体化してからでないと、警告は一方的かつ根拠のない不安を煽るだけのことになるとする意見にはどうもついていけない。なぜなら、「想定」と「具体的な危険」とは多くの場合真っ向から対立するのではないかと思っているからである。

 つまり、投書者の言い分は「具体的な範囲なり想定を示さない限り、想定そのものが全否定される」にあるからである。そしてこの意見に私は、「具体的な危険を想定した場合、対処はその具体的な危険の範囲内に限定されてしまう」ことを危惧しているのである。

 「何かあったらどうする」との警告について具体的な「何か」を示さなかったとき、それは「何も危険なことは起きない」ことの裏返しだと言っていいのだろうか。この投書者は「注意する人が具体的な根拠を示せなかったのだから、危険なことは何も起こらない」、「だから警告は無駄であり、単に子どもの自由な行動の芽を摘むだけだ」と言っているのである。

 でも本当にそうだろうか。「何か・・・」と言う言葉を発する大人は、具体的な危険を想定していないのだろうか。もちろん常にあらゆる危険を想定しているとは言えないだろう。それでもその言葉を発したときは、仮に発信者の思いの中に「具体的な危険の認識」がなかったとしても、一種の「省略された具体的な危険」が潜在的に意識されていたのではないだろうか。

 例えば子どもが一人で遊園地へ出かけたいと親に言う。場合によって親は子どもの要求を否定し、その理由として「何かあった・・・」と発信する場合があるかも知れない。そうしたとき、その「何かあったら・・・」には具体性がないから、子どもの自由意志を否定するだけのものでしかないと言えるのだろうか。

 どんな危険が具体的にあるかどうかは、実は親にだって分らないだろう。途中での交通事故、誘拐、地震、大雨、盗難、遊園地内での観覧車やジェットコースターなどの暴走事故などなど、もっと付け加えるなら飛行機が落ちてくるかも知れないし、がけ崩れが起きるかも知れない。もしかしたら遊園地近くの工場で火災やガス爆発などが起き、隕石が落下してきて遊園中のわが子を直撃するかも知れない。

 危険の例示を具体的に示すのでなければ「警告たりえない」とするのはいかにも変である。「何か」とはこれから起きるかも知れない危険の予知なのだから、常に想定である。だからそれは「何か」を具体的に言うことなど無理なのではないだろうか。だからと言って具体的でなければ「何事も起きない」なのではなく、含まれる危険の様々の確率(起きることの確からしさ)で評価すべきものではないだろうか。

 そしてそのもととなる危険の予知には確率の大きいものから小さいものまで様々が含まれ、だからこそ大人はそれを「何か」という表現で包括するのである。そして人はそれを「想定」というのである。

 投稿者は「何か」が不明確との理由だけで、警告そのものの意味がないとする。だったら「何か」を例示すれば警告の意味があるというのだろうか。「ブランコに乗りたい」と子どもが言ったとき、親が「何かあったらどうする」と反応するのは駄目だという。それなら「落ちたらどうする」、「鎖が切れたらどうする」、「隣で乗っている子どもとケンカになったらどうする」、「誰かに誘拐されたらどうする」・・・、そうした具体例を示したなら、大人が発したブランコ禁止の警告は正当なものになると言うのだろうか。

 確かに「具体的な何か」を示してもらえないと反論のしようがないとの投稿者の言い分にも、納得できるものがある。ただ私は、「何か」について具体的な例示を示したとたんに、その例示だけが一人歩きしてしまい、例示されたもの以外の様々な想定が結果的に無視されてしまうような気がしてならないのである。私には具体的例示を示したとしても、その確率の低さであるとか予算の不足などを理由にそれへの対策が無視されてしまうケースがあまりにも世の中には多いような気がしてならない。

 「想定」に対する対策は、一種の「無駄な投資」になってしまう可能性がある。想定する危険が起こったときには実効性を発揮するかも知れないけれど、想定が想定のままで終わってしまうと、それへの投資が無駄になってしまうことがあるからである。私たちはそうした事例を、身近に実感しているはずである。

 原発事故はここまでの対策を採っているから心配はない、津波対策は○○メートルの土地のかさ上げ造成をしたので大丈夫、航空機は・・・、船舶は・・・、鉱山は・・・、環境は・・・、それを超えるようなことは多分起きないだろうから大丈夫、安全はそうした言葉で語られる。そして他方では「言ってる意味は分かるけれど、それは考えすぎではないのか、予算がなくて叶えられない、いずれそのうちに考えよう」などとの思惑と重なることで、いつの間にか対策が埋没してしまうのである。

 確かに抽象的な「何か・・・」をもとに対策をたてることは難しい。そうした意味では「具体的な例示」を求める意見もそれなり理解できる。だが、具体化させたとたんに危険に対する備えが狭い範囲に限定され、時に必要とされる対策が埋没され無視されてしまう場合が多いことを私は恐れるのである。


                                     2015.8.5    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
想定と無駄