高校生の頃は体操クラブ(吊り輪、鉄棒、平行棒などの競技)に所属し部長をやっていたこともあるけれど、卒業し就職してからはスポーツとはまるで無縁の人生が続いている。しかもそうした人生は「自身が野球やサッカーやゴルフなどのスポーツをやらない」ということのみならず、「観戦することにも興味が湧かない」という世界にまで広がっている。だからそんな私がスポーツについて「ひとこと物申す」なんてこと自体が、間違っているかも知れない。それを承知で私の思いを聞いて欲しい。

 興味の有る無しとは無関係に、スポーツの情報は否応なくテレビラジオや新聞などから勝手に押し寄せてくる。最近のテレビで聞いた話なのだが、世界的にも有名らしい日本人野球選手(投手)が、何やら難しい病名の障害で肩の手術を受けることになったらしい。報道によれば完治するまで一年を要するという。

 治るまでに3日かかろうと一年かかろうと、はたまた治らないにしろ、病状や治療にそれほど詳しくなくスポーツにもほとんど興味のない私にとって、そのこと自体は特に問題ではない。「冷たい奴」だと思われるかも知れないけれど、興味のないジャンルへの関心など、私にとってはこんなものである。

 ただ、スポーツ選手の怪我であるとか治療などの話題が、最近多くなっているように思えるのである。そして無関心とは言いながら私がスポーツというジャンルに抱いている意識と怪我の多さなどが、どこか食い違っているような気がしてきたのである。

 そしてたとえばプロ野球や高校野球などのピッチャーの一試合の投球回数の制限などが話題になったり、サッカーやボクシングの選手が後発的に脳機能障害を起こしやすいなどのニュースが、そうした意識を後押しする。

 それはつまりスポーツが、私の抱いているイメージから乖離していっているようなのが気がかりだということである。それはもしかしたら私の偏見なのかも知れない。私はこれまでスポーツというものを「単一のイメージ」として捉えてきた。しかしもしかしたらそれは間違いなのかも知れない。私は別々のイメージとして理解すべきスポーツへの思いを、混同しているのかも知れない。だとするなら、これから書くことは私のまさに偏見になるだろう。

 それはスポーツと健康の結びつきについての疑問である。オリンピック創始者であるクーベルタンが、「勝つことよりも参加することが目的である」と言ったとか、「健全な精神は健全な肉体に宿る」などと世上言われてる俗説が、どんな場合も正しいなどとは思っていない。またデイサービスなどで後期高齢者を集めて「ちいちっぱっぱ、ちいぱっぱ」と体操とも運動ともつかぬ集団行動をとることで認知症を予防できるとするような思いを、プロスポーツの世界にそのまま重ねようとも思わない。

 ただ私は、スポーツは「体を動かす」とか「ラジオ体操」などの延長上にあるとの思いから、抜けきれないでいるのである。普段と異なったスタイルで体を動かすのだから、場合によってはケガをしたり足腰を痛めたり筋肉痛を誘発することだってあるだろうと思う。仮にケガを予防し、足腰を鍛え、筋肉痛にかからないような肉体の育成を目的に訓練していたところで、時にそれに反した結果を招いてしまう場合のあることを否定はしない。

 だが最近のプロスポーツ界における病気や障害の発生は、「たまたま起こった」と割り切るのとはどこか違うように思えてならない。事故の起きることを事前に分りつつ、そうした環境に自らを投げ込もうとしているように見えるのが、とても気がかりなのである。もちろん、事故対策などは考えているだろう。ケガなどが起きた時の治療方法などもまた進化しているだろう。だが、それでもなお、スポーツが「事故が起きる方向」へと進んでいるように思えてならないのである。決して「無理をしない」とか「ゆっくり体を鍛えよう」との方向へ向かっていないように思えるのである。

 「丈夫な体」を作るための手段としてスポーツがあるのだと私は思ってきた。儲かるからムリをするのか、それとも世界一や優勝という名誉が欲しくてムリをするのか、それともその両方が目的なのか。今やスポーツはいわゆる「運動」とか「体操」という枠を超えて、プロと称する「特権階級」だけの専門化されたゲームへと変化してしまっている。

 そういう風に進化させてしまったのだ、と割り切ることは可能かも知れない。私が抱いているラジオ体操を根っこに置いたスポーツと、10数歳から20数歳で数億円を稼ぎまくるいわゆるプロの選手が目指すスポーツとは、同視すべきものではないのかも知れない。もしかしたら「スポーツ」という一つの単語で括ることそのものが間違いなのかも知れない。それは単にたまたま同一の用語を用いているだけのことであって、根本から異質な分野なのだと、現代は私たちに教えているのかも知れない。

 ただ私は、これまでどことなくスポーツを健康と結びつけ、場合によっては神聖化してきたことに、どこか裏切られた思いがしているのである。「より高く、より早く・・・」と唱え続けられてきた呪文が、実は「金メダル」と「賞金」と「報酬」、そして更に言わせてもらえるなら「国家の威信」みたいなもののためにのみ捧げられてきたように思える現状に、ますますスポーツ嫌いが高じてきているのである。

 そしてダメ押しは、つい昨日のテレビであった。スポーツ嫌いの私だから、その番組内容を見たわけではない。ただそのタイトルが目に入っただけのことである。

 「アスリートの魂 治療か現実か 揺れる心」(2015.4.4 17時台 NHKテレビ)

 内容を知らずにタイトルだけで批判するのは間違っていることは承知している。それでもなお、この番組のサブタイトルである「治療か現実か」という表現に、私はその意味が分かり、かつ、どうしょうもない悲しさを覚えてしまったのである。


                                     2015.4.5    佐々木利夫


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